今も変わらない、山が魅せる世界の驚き
1975年。宇宙では、旧ソ連のソユーズ19号と米国のアポロ18号が地球周回軌道上で史上初の国際ドッキングをし、日本ではザ・ピーナッツがさよなら公演をし引退した。当時36歳の田部井淳子が、女性として初めてエベレストを登頂したのはそんな年だ。以来、日本において、世界において、女性の登山を名実ともに牽引してきた田部井の半生。
世はちょっとした「登山ブーム」である。
なかば苦行のようなストイックなイメージはなくなり、誰もが気軽に登山を楽しむ。もちろん、最低限の注意や予備知識は必要だが、少なくとも一部の熟練者たちだけのものでなくなったのは間違いない。
「山ガール」の言葉に代表されるように、若い女性登山者が増えているのも最近の傾向だろう。いかにもといった、昔ながらの野暮ったい“登山ルック”ではなく、服装においてファッション性が高くなっていることも、ブームを後押ししている。
登山家である田部井淳子は、そんなブームの仕掛け人だと言ってもいい。
田部井は2年前、MJリンクという組織を立ち上げた。Mは山(=Mountain)、Jは女性(=Josei)を表わしており、若い女性をターゲットに登山の楽しみを知ってもらいたい、というのがその目的だ。田部井は言う。
「若い女性が美しい自然を自分の目で見れば、こういう場所を残しておきたい、自分の子供も連れてきたいと思うに違いない。だから、次の生を生み育てていく人にこそ、こういう自然のなかに入ってほしいっていう気持ちを込めて、MJリンクを立ち上げました。対象年齢を20代から40代に制限して募集したら、ものすごく多くの方が興味を持ってくれて。すごくうれしかったですね」
田部井が「若い女性に見てもらいたい」と話す風景、そして、そこで受ける感動というのは、ある意味で彼女自身がこれまでに大きな影響を受けてきたものだ。それがあったからこそ、今の田部井があると言っても過言ではない。
女性登山家のフロントランナーとして精力的に活動を続ける田部井。そんな彼女を現在に至らせた原体験とは、いかなるものだったのだろうか。
色あせない、初山登りの驚き
田部井が登山の楽しさに目覚めたのは、彼女がまだ小学校4年生、10歳のときのことだ。
本人曰く、「昭和20年代の話ですから、親も食べることに追われていたし、家族旅行に行くとか、ハイキングに行くとか、そういうことができる時代では全然ありませんでした」。
そんな折、田部井のクラスの担任だった先生が、夏休みを利用して希望者を山に連れて行ってくれることになった。「当時27歳くらいで若い先生だったんですが、すごく山が好きな先生で、個人的に行くつもりだったところに私たちも連れて行ってくれたんです」。
後に日本、いや、世界を代表する女性登山家となった田部井にとって、人生初登山の舞台となったのは、栃木県那須山系にある茶臼岳と朝日岳。田部井が福島県三春町に生まれ育ったことを考えれば比較的手近な場所だったわけだが、小学4年生の少女にとっては見るものすべてが新鮮だった。
それまで三春町で見てきた山と言えば、緑。段々畑があり、季節ごとに桜やツツジといった花が咲く。それが田部井にとっての山だった。
だが、先生が連れて行ってくれた山は、それとはまったく違っていた。夏と言えば暑いものだと思っていたのに、山の上は涼しいというより寒いくらい。あたりには草も木もなく、見えるのは岩と砂ばかり。そのうえ、硫黄の臭いも漂っていた。
こうして文字にしてしまうと、殺風景と言うしかない。ところが、それを見た田部井に、驚きこそあれ、悪い印象はまったくなかった。自分の足で歩き、自分の目で見て、自分の肌で感じた体験は、教科書を通して学校で習うこととはまったく違う種類の、新鮮な驚きの連続だった。
「川には水が流れているのが常識なのに、そこではお湯が流れているんですから。しかも、私たちが泊まった宿というのは湯治場で、川をせき止めたところが露天風呂になっていたんです。こんなところがあるのかって、ものすごく強い印象を受けて。それはもうビックリしました」
ここまででも田部井が登山に魅せられた理由としては、すでに十分なものにも思えるが、この話にはまだ続きがある。田部井は懐かしそうに語る。
「そのころから私は体が小さくて、逆上がりはできないし、一番低い跳び箱も跳べない。本当に運動がダメだったんです。ところが、山登りは先生も『ゆっくりでいいんだ』って言ってくれて、その言葉にすごくホッとしたのを覚えています。体育が得意な友達と一緒にしゃべりながら歩いて、一緒に頂上に立っているというのが、すごく心地よかったんですね」
頂上に立つと、眼下には昨夜泊まった宿舎が小さく見える。「あんなに遠くから自分は歩いてきたんだ。私にもできたんだ」。誰かと勝ち負けを競うわけではなく、頂上にたどり着いたときに自分だけがニンマリとして、思わず心の中で「やったね」と叫んでしまうような心地よい爽快感。運動が苦手だった少女にとって、その快感は格別だった。
もっともっと知らないところへ行ってみたい。今も続く、田部井の飽くなき好奇心と探求心が芽生えた瞬間だった。
当時「登山は男の世界」という壁
登山の楽しさに目覚めた田部井だったが、その後も中学卒業までに山へ行けたのは1年に一度だけ。高校では山岳部に入るつもりだったが、女子の入部が許されず、あえなく断念。進学した女子大には山岳部がなく、やむなく筝曲部に入部した。山への興味は失われていきそうなものだが、むしろ、そうした“不遇”が田部井の情熱に火をつけたかのように、興味は一層高まっていった。
大学時代は友人とともに、御岳など東京周辺の山々へ通う日々。本を買って行き先を調べては、登山計画を立てた。そこから行動範囲も徐々に広がり、群馬や長野、夏休みは1カ月間北海道へ、といった具合に、日本各地の山を歩き回った。
とはいえ、それまでの田部井の登山は、いわば、小学校4年生で味わった原体験の延長線上にあったもの。しかし、ここから次第に“本格的”なものへと変わっていくことになる。
きっかけは、大学卒業後、社会人の山岳会に入ったことだった。
高校の山岳部がそうだったように、当時は社会人の山岳会もまた、その多くが「男子に限る」という時代。田部井は雑誌で女子を受け入れてくれるところを探し、入会した。
山岳会への入会動機は気軽なものだった。山の雑誌を見ていたとき、美しい冬山の写真を目にし、「冬の山にも登ってみたいな」という程度である。
「それには、今までのように身近な友達とだけでは危険かな。やっぱり山岳会に入ったほうがいいかな。そんなふうに思ったんです」
ところが、実際に入会してみると、そこは岩登りなどをする本格的な山岳会で、「登山道を通って、縦走してくるっていうのが私にとっての山登りだった」という田部井には、そもそも先輩たちの話している内容が全然理解できない。「今までの延長で雪山にも行けるかなと思っていたので、とてもビックリしました」。
すごいところに来ちゃったな。それが第一印象だった。
ほどなくして、田部井は初めて丹沢へ行くことになった。ロープを体につけて、沢や岩をほとんど垂直に登っていく。今までは足で歩くことが登山だったが、もはや両手両足を駆使しなければ登れない。こんな登り方もあるのか。驚かされることばかりだった。
しかし、それは決して苦痛なものではなかった。岩に手で触れたときに感じる、ぬくもりや冷たさ。大好きな山に自分の手で触れて登っているという感覚は、むしろ心地よいものだった。
また、ちょっとしたミスが命取りになる状況にあって、足の裏からビリビリと伝わってくるような緊張感もたまらない魅力だった。かくして、田部井が毎週岩登りに明けくれるようになっていくのも、当然の成り行きだった。田部井、22歳(1962年)のことである。
「親は私が山へ行くことは知っていても、ヘルメットをかぶって岸壁にへばりついているとは思っていなかったでしょうね」
次第に本格的な登山に魅了されていく田部井だったが、だからといって、このころすでにエベレスト登頂を目標に定めていたわけではない。当時の田部井が楽しみにしていたのは、より難易度の高い山へ登ること。「次は何級の岩場を登りたいとか、それを目指していくのが楽しみでした」。当時の岩のルートには難易度に応じて等級がついており、例えば、4級のルートに登るためには、3級を10本以上登らなければならないなど、細かな規則が定められていたのだ。
「田部井は女性初のエベレスト登頂者」という報道への違和感
いずれはヒマラヤに登りたいね。遠い夢の話として、そんな話をすることもあったが、「実現可能とは思っていなかった」というのが、正直な気持ちだった。
ところが、そんな夢の話が実現に向かうのだから、不思議なものだ。少々大袈裟に言わせてもらうならば、田部井の夢を後押ししたのは“時代の変化”である。
折しも60年代後半になると、日本人がマッターホルンに行ったとか、アイガーの北壁を登ったとか、そうした記録が新聞を賑わせた。田部井も登山仲間から、「お前もアイガーやヒマラヤへ行ってみろ。女だけでも登れる実力がついてきたし、女だけでも登れる」と言われるようになっていた。
その時点ではまだ、田部井には「夢のまた夢」ではあった。しかし、よく考えてみると、女だけで登ることのメリットは少なくない。男と女では体格差もあるし、体力差もある。単純に歩く速度は違えば、岸壁をつかむ位置も合わない。男に交じって登山するとき、女の負担は大きかったからだ。
男に負けたくないなどと、競うつもりはなかった。だが、田部井には「男と一緒に行っていたおかげで、体力の限界をうんと引き上げてもらえた」という感謝と同時に、「肉体的に同じ条件の者同士で行ったほうがフェアだなっていう思いはありました」。
現在と違って、好きなときに飛行機に乗って海外へ行ける時代ではない。「今行かなかったら、一生行けない」。そんな決意の下に、果たして1969年、女子登攀クラブが結成された。合言葉は「女だけでヒマラヤへ行こう」。目指すは世界最高峰、エベレストだった。
田部井が夢を現実のものへと変え、エベレスト登頂を成し遂げたのは1975年。その瞬間は、さぞや大きな達成感に包まれたのだろうと思いきや、田部井は「正直、あまりなかった」と振り返る。
「現実的には、頂上に着いてやらなきゃいけないことがすごく多い。まずはトランシーバーで登ったことを伝えなくちゃいけないし、写真も取らなきゃいけない。撮り忘れがないか確認したら、あとは酸素が切れる前に早く下りなきゃいけない。下りるのだって飛び込むような斜面ですから、怖いですよ。無事に安心して歩けるところへ早く行きたいって、そういう思いのほうが強かったですね」
頂上に着いても、世界一を極めたとか、ましてや女性初だとか、そういった実感はまったくなし。ただただチームのみんなで目指してきた頂に到達するため、自分がやるべきことをやった。それだけだった。だからこそ、女性初のエベレスト登頂成功を伝える報道のなかで、自分の名前ばかりが出ていることには大きな抵抗を感じたという。
「ひとりでは絶対できないことですから、むしろ自分が頂上に立ったというよりも、エベレスト日本女子登山隊が立ったんだと思いましたから。でも、隊長から『これは仕方がないことだから、あきらめなさい。登ったものには報告する義務がある』と言われて、初めての講演もやったんです」
無我夢中で隊の仲間とともに目指したエベレスト登頂。とはいえ、頂上に立った田部井には確かな感動があったのもまた、事実である。それは世界最高峰うんぬんと言った大仰なものではなく、小学校4年生で味わった原体験の延長線上にあるものだった。
「ネパール側は氷や岩の山々が続いているのに対して、反対のチベット側は起伏の緩いチベット高原が果てしなく続いている。エベレストを隔てて東と西ではこんなにも違うんだっていうのが、私にとっての驚きでした。エベレストの存在はすごいなって。それはもう、4年生のときに受けた刺激とあまり変わらないものでしたね」
行ったことのない世界へ行く驚き、ただそれだけ
これまで登山家として活動を続けてきて、田部井には死の恐怖に直面したこと、すなわち「もうダメだなと思ったことは3回ありました」。いずれも雪崩に遭遇したものだが、しかし、だからといって「もう登山を止めたいと思ったことはない」という。
「見たことのないものを見て、出会ったことのない人に出会って、やっぱり驚きが多いんです。そういう知らない世界へまた行ってみたいっていう思いが、普段の生活に戻ってもまた湧き上がってくる。だから、帰ってきたら終わりじゃなく、そこからまた次が始まっていくという感じです。いろんなところへ行けば行くほど、地球ってすごいなって思いますし、自分の知らないところがまだまだいっぱいあると思うと、ちょっと焦ります(笑)」
いわば、「焦り」を原動力にし、「驚き」を追い求める。それこそが、今後も田部井の目標であり続ける。そこに女性登山家の先駆者であるという肩肘張った様子はなく、小学校4年生のときから何ら変わることがない「楽しむ姿勢」があるだけだ。
と同時に、田部井には新たなライフワークが加わった。
「私は福島県出身ですので、東北を応援するという意味で、東日本大震災で被災した方たちと登山をし、ハイキングを楽しむということを続けていきたい。やっぱり私ができる活動のひとつは、みんなと一緒に山に行くことですから。行った人が『すごく元気になった』とか、『まさか山に行けるようになるとは思わなかった』とか言って下さると、やってよかったなって思います。それはこれからも続けていきたいなと思っています」
田部井淳子
登山家
たべいじゅんこ。1939年、福島県生まれ。昭和女子大学英米文学科卒業後、社会人の山岳会に入会し、本格的な登山を始める。69年、『女子だけで海外遠征を』を合言葉に、女子登攀クラブを設立。70年、日本女子登山隊に参加し、アンナプルナⅢ峰(7555m)に登頂(隊として女性初、日本人初)。75年春、エベレスト日本女子隊の副隊長兼登攀隊長として、エベレスト(8848m)に女性で初めての登頂に成功。その後、毎年のように国内外の山々に登頂し続け、92年、女性初の7大陸最高峰登頂者となる。現在で世界各国の最高峰・最高地点を登頂し続けており、2012年10月現在60カ国で登頂。NPO法人日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト(HAT-J)代表。20~40代女性のための山の会MJリンク呼びかけ人。
田部井淳子公式サイト:http://www.junko-tabei.jp/
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