世界のダイバーが憧れるポイント
パラオのブルーコーナーを発見した男
ダイビングのメッカとして知られる南太平洋のパラオ。なかでも「ブルーコーナー」は、世界最高峰のドロップオフと言われ、ダイバーであれば一度は潜りたいと憧れる有名スポットである。隣接する「ブルーホール」と共に、パラオの名前に世界に知らしめたスポットを発見したのは、パラオのダイビング、いやダイビングそのものの草分けでもあった、岸川至さんという伝説のダイバーである。
紆余曲折の末に手に入れたパラオの国籍
1935年、岸川さんは、日本統治時代のパラオに生まれた。佐賀県伊万里出身の父親は、当時、多くの日本人がそうであったように、新天地での一攫千金を夢見た男。そして、母親は、後に太平洋戦争で激戦地となるぺリリュー島出身のパラオ人だった。
しかし、平和な生活は長くは続かなかった。岸川さんが小学校に入る頃、戦争が始まり、やがてパラオは戦場となる。混乱で学校に行くこともままならないまま迎えた終戦。故郷パラオは、米軍の統治下になってしまう。日本人であった岸川さんは、日本への帰国を余儀なくされたのだった。
「戦争中は憲兵に勉強を教えてもらっていましたから、書いたり読んだり、計算したりは出来ました。でも、応用問題が出来んのです。一年生に編入させられて腹を立てて、次は五年生に入りましたが、勉強は駄目でしたね。早く大人になりたかった。大人になって日本を逃げ出したいと思いました」
そのためには手に技術をつけなければと、土木工事、大工など、さまざまな職についた。そして、東京で水道工事のアルバイトをしている時のこと、千載一遇のチャンスにめぐりあう。たまたま水道管の工事に入った家が、ライシャワー駐日大使の自宅だったのである。
岸川さんは、パラオ生まれであること、パラオに行きたいことを必死に訴えた。海外旅行自由化以前の'50年代後半。さまざまな審査があり、数年かかって、'62年、ようやく農業移民という名目でアメリカのビザを取得。岸川さんは、念願のパラオに帰国したのだった。
ところがアメリカが施政者とはいえ、パラオは国連の信託統治領となっていて、岸川さんのビザが通用しない。困っていた彼にアドバイスしてくれたのが、パラオ博物館に勤めていた友人だった。
「彼はアメリカ人宣教師の息子で、民法に詳しい。それで、アメリカの民法には、その国で生まれた者はその国の国籍を取得できるルールがあると聞いて、入国管理局に行ったんです。自分はパラオで生まれたから、国籍をくれと。そうしたら、7人の証人を揃えなさいと言われて。はい、私はやっとパラオの国籍をもらいました」
最初は、政府で建築の仕事をやった。日本で経験があった岸川さんは、たちまち実力を認められたが、一年かけてやるべき工事を半年で終わらせてクビになった。次は政府が出資したホテルのマネージャーに。客相手の仕事は性に合っていたのだろう、その後も民間のホテルに移ってマネージャーを務めた。
海に対する認識を変えてくれた恩人、クストー
一方で、沈船引き上げのサルベージ会社の仕事も手伝った。日本でダイビングの心得があったからである。
「ダイビングは遊びでやっていました。当時、銀座に日本の潜水の草分けの組織があってね。顔を出すと、米軍のタンクがあって潜ることが出来た。パラオ生まれだから水泳は得意でしょう。ダイビングは面白いと思ったね」
'65年、岸川さんが最初のホテルのマネージャーだった頃、偶然の出会いがあった。ホテルにジャック・イブ・クストーが滞在したのである。
フランスの海洋学者にして、カンヌ国際映画祭でパルムドール賞を受賞した『沈黙の世界』など、数々のドキュメンタリー映画の製作者。スキューバダイビングの発明者のひとりでもあるクストーは、ダイビングの神様と言ってもいい存在だ。でも、岸川さんは、そんなことは、何も知らなかった。
自己紹介もしないから、ただ「体臭のきついおじさん」としか思わなかった、というクストーに頼まれて、サルベージ会社からタンクを借り、海に出た。クストーが潜り、岸川さんがボートを操船する。
「海から上がってきたクストーが言うんです。パラオの海を大事にしなさいよ。ここには西太平洋の魚が全部いるから」
そう言われて、岸川さんも素潜りで潜った。「確かにきれいでした。海に対する認識がコロッと変わった。クストーが開眼させてくれたんです」
そして、パラオで最初の本格的なダイビングサービスが誕生するのである。
「貝を採取しに行った時のことです。パラオ人が袋を海中に落としてしまった。それを拾うために60m必死で潜ったんです。その時、下から見上げたら4つの穴が見えた。凄いところだと思いました」
ブルーコーナーに隣接するブルーホールの発見だった。そのブルーホール目当てで潜りにきたダイバーを案内して、今度は、ブルーコーナーを発見する。
「そのときは、2人だけだったから、いつもと逆の左に行ってみようと。そうしたら出てきたのがブルーコーナーですよ。アジがくる、バラクーダがくる、サメが来る。尋常ではなかった。驚いちゃって、2人して動かないで、ポケーッと見ていました」
パラオのスポットは片っ端から潜って探し、飛行機で空からも探した。だが、ブルーコーナーの地形は、空から見ても気づかなかっただろうと岸川さんは言う。偶然がもたらした神の贈り物だったのだ。
'79年、カープ・アイランド・リゾートが開業する。コロール市内からブルーコーナーまでは1時間かかる。星のかたちをしたその島は、10分でアクセスできる絶好の立地だった。
「母方の親戚が持っていた島だったんですよ。最初は、仲間が来る場所という感じだったけれど、ダイビング雑誌がパラオをとりあげるようになって有名になりました」
80年代後半、日本のバブル経済とダイビングブームの追い風を受けて、パラオはその名を広く知られることになる。でも、「ダイビングはスポーツ」と言い切る岸川さんは、そうした風潮とは一線をおいてきた。
夜も明けやらぬ早朝、カープアイランドでブルーコーナーに潜った。眠い眼をこすりながら起きていくと岸川さんが「ブルーコーナーは朝がいいよ」と話しかけてきた。いまはもう自分が朝の海に行くことはないけれど、海の魅力を知り尽くした海の男の言葉。朝焼けの海に出かけていく私たちの後ろ姿を微笑みながら見つめていた。
パラオ政府観光局
http://www.palau.or.jp/
カープ・アイランド・リゾート&パラオ・ダイビング・センター
http://カープアイランド.jp/
岸川至
カープ・アイランド・リゾート&パラオ・ダイビング・センター・オーナー
1935年、日本統治時代のパラオ生まれ。1962年、パラオに帰国。その後、パラオ国籍を取得。パラオのダイビングの草分けとして「ブルーホール」「ブルーコーナー」などの有名スポットを開発。パラオで初めてのダイビングサービスをスタートさせ、1979年、カープ・アイランド・リゾートを開業する。趣味は日本の歴史小説を読むこと。
Text&Photos: Yumi Yamaguchi
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