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Yasunaga Ogita

荻田泰永

北極冒険家

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北極に生きる男

「北極」に取り憑かれたひとりの青年がいる。2000年に“北極デビュー”した彼は、ほぼ毎年、これまで11度、北極の地を踏み、1000kmを超す単独徒歩行や犬ぞり縦断、イヌイットとの交流を続けてきた。今年2011年は、ノンフィクション作家・角幡唯介氏とのコンビにより、北極史最大の謎と呼ばれる英フランクリン隊の足跡をたどる冒険にも挑んだ。荻田を虜にした北極冒険の世界。

From Faust A.G. Channel on [YouTube]

2011年、北極圏1600kmを角幡氏とともに徒歩行。ホッキョクグマを追い払い、猛吹雪に立ち向かう、北極冒険の生の姿。
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大学を中退した荻田泰永は、悶々とした日々を過ごしていた。
自分には何ができるのか。そもそも、何がしたいのか。
明るく照らし出されるはずの未来は、鬱蒼とした暗闇に包まれていた。
若いエネルギーが爆発寸前まで膨んだそのとき
荻田は心を激しく揺さぶられるニュースに出会う。
停滞を強いられていた人生は、ここから大きく動き出すのだった。

初めての海外が、冒険家・大場満郎氏に連れられた北極徒歩行



2000年、大場氏に連れられ初めて挑んだ北極。ゴールの北磁極にて。

荻田を北極へ導いたのは、いくつもの偶然だった。
たまたま、テレビを点けていた。
たまたま、そのチャンネルを観ていた。
たまたま、冒険家の大場満郎氏※が出演していた。
「本当に、すべてがたまたま、なんです。『来年は若い人を連れて北極を歩こうと思っているんです』と大場さんが話していて、そのときに行きたいな、と思ったんです」
大場氏の存在は知らなかった。北極に憧れていたわけもない。
ただ、ブラウン管の向こう側の言葉は、荻田の全身を貫いた。
「このテレビ番組を観たすぐあとに、毎日新聞主催の講演会があって、それに大場さんが出るということで聞きに行ったんですね。そうしたら、そこでも同じことを話していたので、毎日新聞に『北極に行きたいので、大場さんの連絡先を教えてもらえませんか』と手紙を書いたんです。そうしたら、大場さんから手紙が届きました」
大場氏からの返信には、すでに何人かのメンバーが集まっており、月に一度の割合でミーティングを開いているとあった。「もし良かったら、一度話だけでも聞きにきませんか」とも。行き場を求めていた若いエネルギーが、ふつふつと沸き上がっていった。

「初めて成田から飛行機に乗って、初めて着いた海外が北極。私は神奈川県出身なのですが、当時の生息範囲って地元と東京の周辺ぐらい。中学、高校の修学旅行を除けば、そこからほとんど出たことがなかった。ですから、北極でなくても、どこへ行っても新鮮だったでしょうね。それでもやはり、インパクトは強烈でした。見渡す限り海が凍りついている光景って、めったに見られるものじゃない。北極圏であるカナダのレゾリュート※の村を歩いていると、アザラシが無造作に転がっていたりする。『おお、すげえっ! 何だ、これ』って」
こうして2000年、レゾリュートから北磁極までの700kmを、大場氏に率いられたパーティは35日かけて踏破した。荻田はかつて味わったことのない達成感と充実感に満たされ、帰国後も心地良い余韻に浸っていた。

大場満郎・・・・・・1953年山形出身。北極の単独歩行冒険で知られる北極冒険家の先駆者。2000年植村直己冒険賞。
レゾリュート・・・・・・北極圏、カナダのヌナブト準州に属し、北緯74度に位置する村。

北極700kmを歩くだけでは
何も変わらない

「半年間ぐらいはね、『いい旅だったなあ』って気持ちでいられたんです。でも、ふとした瞬間に、『ちょっと待てよ。オレ、何も変わってないぞ?』って気づいたんです」
北極を700kmも歩いたことで、自分は変わった、以前とは違う、と荻田は思っていた。だが、自らの情熱を注げる明確な目標は、なおも見つけることができていなかった。
このままじゃいけない。
次はもう、自分で動き出さなければ。
今度はひとりで、北極に行ってみよう。
2001年3月、荻田はレゾリュートへ向かう。前の年に歩いた700kmを、ひとりでなぞってみようと考えたのだった。
「結局は歩けなかったんですけどね。用意した装備を現地でテストしてみると、これでは使えないといったアラが、あちこちで見えてきて。一度北極を歩いただけですから、当時の私には知識も経験も足りなかったんです。でも……」
実はそれも、想定内だった。
「本当のことを言えば、日本を出る前から、ひとりでは歩けないだろうというのは九割ぐらい感じていたんです。ただ、歩けないから行かないでは、何の前進にもならない。行けば何かあるだろうと。だから、落胆はなかった。自分で用意した装備の何がいけないのか、これから何をやっていかなきゃいけないのかがかなりわかりましたから」
自分なりの確認作業を終えても、荻田はレゾリュートに滞在した。来るべき挑戦へ向けた情報と知識を収集していったのである。
「レゾリュートという村には、世界中から冒険をする人たちが集まってくるんですね。日本で絶対に得られない情報を集めることができて、外国の人たちの装備を見せてもらったりすることができた。食料はどうなのか、計画はどうなのか、と。この年は一カ月過ごして、来年こそは絶対にひとりで歩こうと決めました」
人生の進路が、定まった。

大先輩と北極、イヌイットから学び得た自分なりの冒険

帰国した荻田は、ほぼ半年にわたってアルバイトに汗を流し──三つの仕事をかけ持ちした──必要な資金を作り出した。2002年、レゾリュートからカナダ最北の集落グリスフィヨルドまでの500kmを、24日間で単独徒歩行した。
そこから先はもう、北極冒険家としての道をひたすらに突き進んでいった。

2002年、カナダ・レゾリュートから記念すべき単独徒歩行をスタート。
2003年、北極圏カナダ・ビクトリア島でのキャンプ中の一枚。

「二度、三度と行くうちに、北極の魅力が少しずつ分かっていくんです。同じ極地でも、南極と違って人が住んでいる。イヌイットですね。そこに文化、歴史、生活がある。イヌイットは日本人と同じモンゴロイドなので、顔が似ているんです。それもあって、すごく親近感を持ってくれる。『お前、どこの村から来たんだ?』なんて聞かれたりしますから(笑)」
イヌイットとの温もりに満ちた触れあいは、北極で生き抜くための知識を深めることに結びつく。
「彼らは完全なる狩猟民族で、我々は農耕民族。一万年ぐらい前まで辿れば祖先は同じなんでしょうけれど、そこからの生い立ちはまったく違う。だから、考え方や性格がまったく違うんです。イヌイットは良く言えばおおらかで、悪く言えばいい加減。それってでも、しょうがないと思うんです。農耕は計画的にできるけど、狩猟は計画を立てられない。獲物が捕れたらその日の食事にありつけるけれど、捕れなきゃ食べられない。そうなると、『今日は捕れるかな、明日は大丈夫かな』と、細かいことを考えていたら気持ちが持たない。狩猟は自然の影響も受けるわけですから、自分ではどうしようもできないこともあるし。イヌイットがクヨクヨしないのは、厳しい環境で生きていく人の特徴なんだろうな、と思うんです。私も北極をひとりで歩いていて、細かいことを気にしていたらキリがない。考え方を前向きに切り替えたほうが、実は安全度も増しますし」

死を感じた極限状態が
感覚を研ぎ澄ました

人間が立ち入ることのできる場所で、「北極は地球で一番厳しい環境」と荻田は言う。必然として、生と死を日常的に意識せざるを得ない。
「たとえば、シロクマとの遭遇があります。外敵がいるというのは、北極の危なさのひとつ。今回なら、テントで寝ているときにシロクマが来たんですけど、私は来ることを前提に準備している」
荻田の北極行きは単独行を基本としているが、2011年、今春は探検家でノンフィクション作家の角幡唯介とともに1600kmの徒歩行※を敢行した。

1600kmの徒歩行・・・角幡氏のインタビューを参照

テントで休息を取っていた彼らはシロクマと遭遇したのだが、それも荻田にとっては想定内だった。
「経験を積んでいくと、アクシデントとかリスクを、自分の想定内に収められるんです。環境が厳しいほど集中するし、五感が研ぎ澄まされて、聴覚が異常に鋭くなる。絶対に気づくはずのないシロクマの接近を、テントのなかで感じたりとか。あれは2007年だったんですが、テントで調理中にヤケドをしてしまったんですね。火の勢いは何とか収まったけど、ヤケドがひどくて冒険の続行を断念し、救助を頼むことになってしまった。そのとき、左耳に何か聞こえた感じがした。ぞわぞわ、と。テントのそぐそばに何者かが来た、来たとしたらシロクマしかいない。こんなときになんでだ!と思いながらライフルを手にとって外に出たら、何もいない。あれっ、と思ったら、200mぐらい遠くから、シロクマがゆっくりと歩いてきた。どうやら、救助の飛行機が着陸できなかったどうしようとか、命の危険を感じて死に物狂いで対処を考えていたから、余計に感覚が研ぎ澄まされていたからかもしれません」

果てしなく白が続く、美しくも厳しい氷の世界。
2011年、北極圏1600km徒歩行にて、中継点ジョアヘブンに到着し、角幡氏と握手。

学術者と交流し、北極の研究観測に寄与

毎年一度のペースで北極へ通い続けてきた荻田は、数年前から新たな冒険のエンジンを搭載した。彼の言葉を借りれば「社会性」であり、ファウストの精神に照らせば「貢献」である。
「文部科学省の独立行政法人で海洋研究開発機構というのがあって、で、そこで北極を専門的に調査しているチームの方と知り合ったんです。昨年は気象の観測をお手伝いさせてもらいました。バレーボールぐらいの大きさで、重さ2・5kgぐらいの機械を、私が引くソリに積んで、3時間おきに人工衛星を通じて気温や気圧のデータなどが送られていく。従来の観測は基本的に一点、固定されたものからデータを取るわけだけど、私は移動しますから。“点”の観測を“線”に出来る。それから、これは大学の研究なんですが、雪をサンプルとして持ち帰って、大気汚染の物質がどれくらい含まれているかを計測する協力をさせてもらったりしています」





地球の環境問題を北極にフォーカスすれば、温暖化による海氷面積の減少が浮かび上がる。現地を知る荻田の行動は、そうした問題意識に根差したものなのだろうか。大げさなほど右手を振り、荻田は否定した。

「自分の冒険を通じて何かに貢献したいからではなくて、これは単純な好奇心がまさっています。自分の知らない北極を、協力することによって知ることができれば、北極に対する理解が深まっていくので、自分が発信できることも増えていくと思うんです」
社会貢献という四文字を、まったく意識しないわけではない。知人が語った何気ない言葉は胸に刻まれ、使命感へと昇華している。
「『科学者の言葉は、一般にはなかなか伝わらない。でも、荻田さんみたいな人なら、北極を分かりやすく伝えてくれる橋渡し役になるんじゃないですか』、そう言われたことがありまして。そうか、そういう考え方もあるんだなあと思ったんですが、基本的には北極をもっと知りたいという自分の好奇心から動き出しているんですけどね」

次の夢
「北極点無補給単独徒歩到達」へ
そしてさらなる北極冒険の究極へ!

北極に初めてひとりで足を踏み入れてから10年目となる2012年来春、荻田は北極点無補給単独徒歩到達を目ざす。ずらりと並ぶ漢字をわかりやすく解き明かせば、最初に用意した荷物だけですべての行程を乗り切るということである。もちろん、ひとりで。

「私のなかでの冒険というのは、すべてのリスクを自分で負わなきゃいけないもの。自分で負うべきリスクを人に担保してもらわないというのは、大きなテーマになっている。時代によって冒険のやり方というものはあって、道具は進化しているし、手法は確立されているし、情報も増えている。その分、自主的に規制をかけていかなければいけないと思う。以前だったら補給を受けていたかもしれないけれど、現在の北極冒険の主流は無補給で、どれだけ少人数で行けるか。となれば、ソロ(単独)が究極でしょう」

荻田にとっては最大の挑戦である。そこには、二つの意味がある。
「いつかはやろうと思っていた目標だったんです。これまでの旅は、そこへ行くための経験作りだった。難しいもの、長いものを目ざしながら、北極点を目指せる力をつけるための10年間だった。無補給単独は、これまで世界で3人しか達成していない。ノルウェー人、イギリス人、イギリス人。世界で一番難しいと思います」
北極点へのルートは、ロシア側からとカナダ側からの二つがあるという。カナダ側からが800km、ロシア側からは1100kmと、地図上の距離はロシア側のほうが長い。だが、一般的にはカナダ側のルートが難しいと言われている。
「海流の影響で、カナダ側のほうが乱氷が激しい。北極海が一番難しい要因は、氷が動くからなんです。北極点付近だと、水深4000mぐらいで、表面の3mぐらいが凍っているだけ。海にとっては薄い膜ぐらいなので、風が吹いたり、海流によって流れたりする。流れるということは、割れたり、ぶつかりあって乱氷帯になったりする。そして、カナダ側からだと戻されるようなかっこうになるので、直線距離は800kmでも、歩く距離はたぶん1・5倍ぐらいになる。過去の3人はロシア側からが二人、カナダ側からがひとり。で、私はカナダ側からやりたいと思っています」
あえて難しいルートを目ざす荻田の視線は、史上4人目となる北極点無補給単独徒歩到達にとどまらない。さらに一歩先を、この男は見据えている。
「最終的には、折り返してまた戻るか、もしくはカナダ・ロシア間の横断を実現したい。往復にしろ横断にしろ、無補給単独はいまだにいないので、どちらも実現すれば世界一になります。これは密かな野望ですけどね。横断も往復も二人でやったケースはあるけど、ひとりはいない。チャレンジした人はいるけど、それそらもかなり少ないんですよ」

2007年、カナダ北極圏1000kmを単独徒歩行に挑むも、500km地点でキャンプ中に火を出す危機的ミスのため、救難飛行機により帰還。

世界中の冒険家が逡巡してきたのには、もちろん理由がある。目の前に横たわる道のりの険しさは、荻田自身も理解している。
「往復でも横断でも、最大の難しさは、荷物の重さとの格闘です。距離が延びると必要な物資が増える。片道なら100kgで済むものが、往復となるとどんなに切り詰めても150kgぐらいになる。それだけの重い荷物を、ひとりで引きながら乱氷帯を行けるのか。だからといって、たとえば食料を少なくしたら、身体が持たないかもしれない。二律背反をうまく取りながら、ギリギリのところでやらなきゃいけない。あとは、運に占められるところもある。氷の状態ばかりは、実際に行ってみないと分からない。冒険の半分ぐらいは運任せになってしまうと思うんです。そして、資金面ですね」

冒険の恩返し

いずれにしても、北極点無補給単独徒歩到達を達成すれば、荻田は次のステージを目ざすことになる。「2000年から12年までは、言わば自分の旅、自分の挑戦、第一章。それをやりきったら、インプットしてきたことを発信したい」と話す。大場満郎氏に初めて出会った当時の自分が、くっきりと思い浮かぶ。
「北極点を達成したらひとつの区切りで、今度は私が若い人を連れて行きたい。私が大場さんに導かれたように、まったく違う世界を見てもらう機会を提供できたらと思うんです。自分のエネルギーをぶつける場所を、探している人はいるでしょうから、そういう人はきっと反応してくれると思う」

2012年春、北極から世界へニュースが発信されたら──。
荻田はひとつの大きな目標をクリアし、新たな目標へ向けて動き出す。
北極への情熱と憧憬が尽きることはない。

 

 

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Yasunaga Ogita
荻田泰永

北極冒険家


北極冒険家。1977年、神奈川県生まれ。2000年4月、冒険家の大場満郎氏の「北磁極を目ざす冒険ウォーク」に参加。カナダのレゾリュートから700kmの徒歩行を経験する。この体験で北極に魅せられ、翌年3月に再びレゾリュートへ。およそ一カ月ほど現地に滞在し、各国の冒険家と交流。様々な情報を収集する。2002年3月からはほぼ毎年にわたって北極を訪れ、単独徒歩行を続けてきた。2011年2月~7月、北極圏1600km(カナダ・レゾリュート~ジョアヘブン~ベイカーレイク)を英フランクリン隊の足跡を辿り、角幡氏とともに徒歩行。2012年春、長年の目標であり夢だった、日本人初の北極点無補給単独徒歩到達に挑戦する予定である。

荻田泰永公式サイト

http://www.ogita-exp.com/

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