自分の行き先は自分で決める
サハラの砂漠も人生も
世界で最も過酷なクルマの冒険、パリ~ダカールラリーで輝かしい成績を収めてきた男、篠塚建次郎。
日本では「パリダカ」という言葉と「篠塚建次郎」という言葉はもはや同義語とさえいえるだろう。篠塚建次郎が雄大なサハラの砂漠の海で知ったことは“自分の行く末は自分で決めるしかない!”ということだった。
ひたすらに走り続ける男の泥臭さのゴールとは。
自分に出来ることは、走ること
「パリダカの篠塚健次郎」は、今、実は”ソーラーカーの人”である。
きっかけは2008年1月のこと。プライベートチームで出場したパリ~ダカールラリーが、国際テロ組織アルカイダと関わりがあると見られる武装グループから出されたテロの予告により、急きょ中止に追い込まれた。パリダカに出るという前提で集めたスポンサーフィーは出場準備のために使ってしまっている。篠塚は自分と自分の会社でその借金を被ることを決め、返済のための講演などをこなしていた。
「講演の打ち合わせに行った東海大学で、アフリカのソーラーカーラリーに出場したいと考えているんだけれども躊躇している、といわれたんです」
大学がソーラーカーチームを作ってオフィシャルに活動する以上、現地に学生が行って万が一アクシデントがあったりしたら確かに厳しい。学生の親からもアフリカでラリーなんて大丈夫かと質問が相次いだという。
「まぁ、自分にとってアフリカは第二の故郷のようなものですし、少しは名が知れた自分が同行するとなれば親御さんも安心するでしょう。それなら東海大学にとってもプラスなんじゃないかと思いましてね。新宿だって危ない場所に危ない時間に行けば危ないでしょ。知っていればいいんです。みんなドロボーなわけじゃないんだから(笑)」
こうして数回の打ち合わせでトントン拍子に話は進み、篠塚は東海大学チームの特別アドバイザーに就任し、2008年の“サウス・アフリカン・ソーラー・チャレンジ”に参戦することになった。国際自動車連盟公認、アフリカ大陸を4200km、太陽の力だけで走破するという世界最長のソーラーカーレースだ。
「だけどね、ソーラーカーにそれまで乗ったことなかったんですよね」
初めてソーラーカーに乗ったのは、なんと大会の現地である。それまで篠塚の“仕事場”といえば、クルマメーカーが持てるテクノロジーとノウハウをすべて注ぎ込んだ300馬力、400馬力というスペシャルマシンだったのに、今度のそれは「まぁだいたい2.5馬力くらい」の華奢な学生の手作りマシンだった。
ところが初めて乗ったソーラーカーに、篠塚は不思議にスッとなじんだ。むしろソーラーなのに普通にクルマとして走るところに新鮮な驚きがあったのだ。
「クルマってこんなんでいいんじゃないの? みたいな感じでしたよ。パリダカのマシンもロールゲージで車体を作ってそこに樹脂のボディを被せていて、ソーラーカーも考え方は一緒。ソーラーカーは効率を高めるために空気抵抗やらタイヤの転がり抵抗やらベアリングの回転抵抗やらを低くするんですけど、それはクルマの大切な基本だっていうことが改めてわかって、妙に感動しましたね」
かくして篠塚が特別アドバイザー兼ドライバーとして参加した東海大学チームは優勝。帰国してしばらくすると、ソーラーパワーだけで4200km走り切ったというその事実が、篠塚の中で日増しに大きくなっていった。
「普通の人は太陽エネルギーで車が4200kmも走れるなんて思わないでしょう。これって温暖化問題に対して素晴らしい技術になるんじゃないかと確信し始めたんです」
翌2009年には、オーストラリアで2年に1度開催される世界最大のソーラーカーレースに挑戦し、「F1チームみたいなトレーラーでやって来るプロの集団」であるベルギー、オランダ、アメリカの強豪チームを抑えて優勝してしまう。さらに2010年もアフリカで再び優勝。
「自分がこうして走ることがソーラーとクルマを結びつける活動になって、いつか何かの役に立てるんじゃないかと思うんですよ」
これからのクルマの技術的主戦場は低燃費、低環境負荷だ。ソーラーカーは、発電さえも太陽光という「究極の電気自動車」である。
「20年後か30年後か分からないけれども、ソーラーで発電できてそのまま走れる市販車が出来ればいいな、と思っています。ソーラーカーをこれから自分の一生の仕事にしていくつもりです」と、篠塚はラリーとはまったく違う世界への挑戦をさらりと言ってのける。
「自分にできることは走ることなんでね」
海外との差を埋めるために
自分は走ることにした
そんな篠塚とモータースポーツとの出会いは大学時代だった。通学途中でたまに一緒になる学友から「ラリーに出るんだけどナビゲーターやらない?」と誘われたのがきっかけだ。
「初めてクルマが横滑りするのを体験しました。クルマはこんな風に走れるんだと本当に衝撃的でしたよ。それでクルマって、モータースポーツって面白いなと思ったわけです」
ラリーに出場するうちに自然と自動車メーカーの人間とも仲よくなった。その中に三菱の関係者もいて、ウチのクルマに乗らないか?と誘われた。しばらくしてワークスのドライバーになり、それからは連戦連勝。やがて就職活動の時期が来てプロになるか社員になるか迷った結果、三菱の入社試験を受けデスクワークもこなすドライバー社員となる。
そして1973年にオイルショックが日本を襲う。日本の自動車メーカー各社はモータースポーツから撤退したが、三菱自動車は欧州勢との技術差を埋めるため海外ラリーだけは例外的に続けることにし、翌年国内では向かうところ敵なしの篠塚を国際舞台にデビューさせた。そこで篠塚は凄まじいまでの海外とのドライビングテクニックの差を思い知らされる。
「大人と子どもの差でしたね。これは死に物狂いでやらないとダメだと思いましたよ」
しかし、1977年の排ガス規制により会社はラリー活動を中止。以後8年間ドライバーとして全くハンドルを握らぬまま歳月が流れた。
篠塚の名前が再びマスメディアに登場したのは1987年のことだ。日本ではあまり知られていないスポーツを日本に紹介していこうという方針のNHKが、アメリカズカップ、ツール・ド・フランスとともにパリ~ダカールラリーをフィーチャーし、総合3位の篠塚をも大きくクローズアップしたのだ。その効果は絶大だった。それまで月に200台しか売れていなかったパジェロは、なんと10倍の2000台売れるようになっていた。これは、モータースポーツの活躍が直接的な原因となってクルマが売れた日本で最初の事例になった。
1988年総合2位、1995年総合3位、1997年総合優勝、1998年総合2位、2002年総合3位という成績を収めた篠塚は、日本においてパリ~ダカールラリーの代名詞になった。
ラリーを走ることで
「自分の人生は自分で決める」ことを知った
ラリーの魅力はやはり自然が相手という点にあるという。砂漠も泥沼も砂利地も荒れたアスファルトもあり、雨も風も嵐もある。寝泊まりもあり当地で飯を食べ、どんな場所でも寝なくちゃいけない。当然地元の人との触れ合いもある。サーキットレースがイコールコンディションを旨とするのに対し、ラリーは瞬間瞬間の判断がその先のレース展開の、無数の枝分かれの元となる。
「パッとその場で判断して、それがもし間違えているとどんどん間違って行くし、逆にある瞬間の判断でリカバリーができることもある。間違えたらどこで引き返すかは自分の判断でしかないのがいいですね」
サーキットのレースと違って無線で状況を教えてくれる監督はラリーにはいない。
「だから寝る前になると『あそこはああすれば良かった、チクショー!』なんてことの連続ですよ」
誰でもベッドの中でそんな経験があるのではないだろうか。
だから、篠塚はラリーを人生の縮図みたいなものだと言う。
砂丘でライバルが見えないから自分がどの順位にいるかわからない。自分のペースで走っていたら知らないうちに相手を抜いていることもあれば、抜かれていることもある。だから、常に自分のベストを尽くすのが後悔を残さないコツであると篠塚はいう。
「面白いですよ、ぜーんぶ自分のせいですから」
「パリダカの篠塚」であり
「ソーラーカーの篠塚」は
あきらめない篠塚でもある
人生の転機というのは、ある日突然襲ってくるものなのだろう。2002年、当時パリ在住の篠塚の元にメールが来た。それは三菱自動車からで、事実上の引退勧告だった。
「前々年にラリー中、リビアで大きな事故を起こした時に自分はサラリーマンとラリードライバーとどちらがやりたいのかをずっと考えていました。そしてもちろんラリードライバーだろうと。自分はまだまだ走りたいわけで会社と平行線になっちゃった」
日本に戻って辞表を書いて、長かったサラリーマン生活を終わらせた。53歳の時だった。
すると日産からパリダカ出場のオファーがあった。2003年に日産のドライバーとして出場することなったが、ここで大クラッシュを起こしフランスでも日本でも「篠塚重体!」のニュースが流されるほどの大ケガをしてしまう。
パリダカのクラッシュはだいたいパターンが決まっているという。クルマの進行方向に小高い丘となってそびえる砂丘で、ラリーカーは時速150kmほどのスピードを出す事ができる。当然砂丘の頂点の裏側は見えないが、勝つためにはアクセルを緩めるわけにはいかない。なぜならそこでアクセルを緩め、砂丘を一つ越えるのに10秒ロスしたとすると、200の砂丘なら30分以上のロスタイムになるからだ。勝つためには、そこでアクセルを踏むか否かにかかっている。このときは砂丘の裏側が落ち込んでおり、クルマはほぼ垂直に落下。時速150kmで地面と正面衝突となった。
ケガをなんとか治し、翌年2004年から2006年までパリダカに出場したものの篠塚は4回連続リタイアの屈辱を味わう。そしてこの2006年、メディアでは篠塚建次郎引退という報道がされた。
しかし、またしても篠塚は翌2007年にトーヨータイヤからタイヤ開発を名目に出場する。それは文字通り泥臭く、パリダカにしがみついているあきらめの悪い篠塚と世間的には映るものだった。
「ああ、なんだこいつ引退っていったのにまだ走るのか……って思われたでしょうね」
篠塚はその時の決断を振り返る。アスリートにとって、引き際というのは永遠のテーマだろう。それは実績を持つ人間であればあるほど重くなる。
「ボクもね、サッカーの中田英寿選手のようにね、バーンとやめるのがカッコいいって思っていたんですよ。でも、自分がその立場になるといや違うな、と(笑)。選手の引退っていうのは他人様が勝手に思うことで、自分がやりたければやりつづければいい。自分の思った通りの走りができなくても、やっぱり走ると楽しいんですよ。昔の格好良さがなくたって、まぁいいじゃん。人がなにを思おうが関係ないよね、まだ走れるんだからさ、と」
自分の行き先は、自分で決める。
こうして今も篠塚はラリーと関わり、走り続けている。
今度は「人生の縮図」を教えてくれたラリーを篠塚が自分で作り出す番だ。一昨年からモンゴルラリーの主催者側スタッフとして運営に関っている。
「中国もロシアも富裕層はクロスカントリーラリーを趣味としてやっている人が多いんです。なにしろ土地はたくさんありますからね(笑)。それで隣の国のモンゴルで大きなラリーがあるとなれば、なにしろ地続きだからすぐに参加できる。ビッグイベントになる可能性があると思っています。パリダカと同じ規模の距離を走ろうと思えばできちゃうくらい広大で、環境は凄くいいから、ちょっとづつ大きくしていきたいんです」
さらにもう一つ、ライフワークとして篠塚が進めているのが、あのダカールがあるセネガルでのボランティア活動だ。
「ラリーでセネガルに入ると、日本人の海外青年協力隊と会うんですよ。彼らも一年に一度の楽しみで。それでいろいろと話をしていると必要なのは教育だということが分かったんです。セネガルは食べ物はだいたいあって飢餓ではない。農業指導もある。自動車修理もできる。ところが学校が少ない」
ラリーで獲得した賞金を拠出し、ダカール空港の近くにあるヨッフ市に、教室が3つある小学校を作った。長年のアフリカでのラリー活動で篠塚建次郎の名前が知れ渡っていたことがここで役に立った。以来、パリ~ダカールラリーのゴール後、サービスカーに積んでいる文房具を教室に届けにいくのが恒例行事となっている。
もし、大学時代にナビゲーターに誘われなかったらどうだったのだろう。1997年にパリ~ダカールラリーで優勝していなかったらどうだろう。引退を撤回して参戦した2008年のパリ~ダカールラリーが中止にならず東海大学に講演に行かなかったら、まだ「パリダカの篠塚」だけだったかもしれない。
こうして篠塚は、自分の行きたいところをその都度その都度、自由に決めていく。ラリーにおいて自分の判断で進路を決めるように、自分の人生という冒険もまた、自分で決めるものだから。
篠塚建次郎
ラリードライバー
1948年生まれ。学生時代からラリーを始め、東海大学工学部を卒業後、三菱自動車に入社。国内ラリーを総なめにした後、1974年より海外ラリーに進出。国際舞台での活躍が期待されていたが、1977年の排ガス規制により以後8年間ドライバー稼業はブランクとなりサラリーマンに徹する。1986年パリ~ダカールラリー出場、38歳で復活。1987年総合3位、1988年総合2位、1997年総合優勝。同時に1991年、1992年にWRCアイボリーコーストラリーでも2年連続優勝して人気実力ともに日本のラリーの代名詞となる。現在は経験を生かし、安全運転・省エネ運転・高齢者の安全運転等の講習会や講演等を勢力的に日本各地で展開。数年前より清里を拠点に、雪道を安全に走るための初心者向けおよびスポーツドラインビングのためのスクールを開催。また警察やクルマのイベントでのトークショーを行う。2002年にセネガルはダカールの隣のヨッフ市にマム アラッサン ライ ド ヨッフ小学校を設立。2008年からソーラーカーのラリーおよびレースに注力中。
篠塚建次郎オフィシャルサイト
http://www.shinoken.net/
Text:Toru Mori
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