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Taro Sirato

白戸太朗

スポーツナビゲーター

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トライアスロンは人生の縮図

自分の愛したスポーツが知られていないという事実。
それを痛感したときに、男は冒険の一歩を踏み出した。
踏み出す勇気を、あきらめない心を、生き方そのものをそのスポーツから学んだ者として。
白戸太朗はトライアスロンを広めるために
自分で道を作り、走っている。

肩書きは「スポーツナビゲーター」

アイアンマンレース(※)で225.8キロを走り抜いて倒れ伏し、カナリア諸島の海岸に恍惚とし、標高3000mのロッキー山脈で星空を見上げて涙を流し……トライアスロンというスポーツに人生の指針を見たのに、皆がそれをやらないばかりか、よく知りもしない。
その魅力を伝える先人も手段もなかったことに気がついた。そして気がついた時、自分がやるしかなかったと思った。
白戸太朗、自らを「スポーツナビゲーター」と名乗る。

 

観光客やショッピングの若者でにぎわう東京・渋谷区代官山。その喧噪から一歩引くように、古き良きかの地の雰囲気を残すのが旧山手通りだ。歩道にいちょうの木々が生い茂り、大使館が軒を連ね、人々がオープンカフェで午後のひとときを過ごす。そんな静かなエリアの一角に「アスロニア」というショップがある。ダークウッドを基調にした店内には商品が丹念に並べられ、間接照明で美しく照らされている。審美眼を持っている大人ならば、その商品数の少なさが、セレクトにセレクトを重ねた故であることに気がつくのに、さほどの時間は要しないだろう。そして「ここは何の店なんだろう」とも思うはずだ。 服のセレクトショップか、それとも自転車店か。
この店こそ白戸が経営するトライアスロンショップである。
「“普通の人”が入りやすい店を作りたかったのです。自転車店やスポーツショップは、ちょっとそれらに縁のない人だと敷居が高く入りづらい。それではこのスポーツが広まらないのです」

 

 

メディアとしてのショップを作る

 アスロニアは白戸が経営するトライアスロンショップの名であり、活動母体となる会社の名でもある。Athlon(競技)にラテン語系の「国」といった意味合いを持つ接尾語-iaを組み合わせたもの。アスリート王国といった意味合いの造語である。そして、もう一つ。アスロニアの他に白戸の肩書きである「スポーツナビゲーター」は、これもまた白戸の造語だ。

 「スポーツの本当の楽しさを伝えていきたいのです。自分が走るということ、それを教えるということ、面白さを伝えるということ。そして伝えるだけで偉そうにしていても仕方がないので(笑)、僕が考えるトライアスリートのために理想的な場を作り、提供しなければならいと思ったのです」

 プロトライアスリートであり、スポーツジャーナリストであり、大会プロデューサーであり、コーディネーターであり。それを表現する職業がなかったから白戸はスポーツナビゲーターという肩書きを名刺に入れ、トライアスリートたちが集い、情報を交換し、また発信するメディアとしての場「アスロニア」を立ち上げたのである。

 白戸ほど様々なフィールドに渡って活躍するプロトライアスリートも珍しい。自分は選手だから……という壁を軽やかに乗り越えてきた。その道で成功をおさめている選手であればあるほど、他のことに一歩踏み出すのは冒険になる。
例えば、週25時間できていたトレーニングが週8時間以下になる。ビジネスマンとして外の人たちと時間を合わせる必要が出てくる。大事な大会前の集中力が維持できなくなるかもしれない。それでも、白戸はアスリートとしての冒険、その一歩を踏み出した。

 

 

澱のように溜まっていく何かを見つめて

 ここに至ったのは、純粋にプロアスリートとして活動していた経験があったからだ。トライアスロンというスポーツが、まだ日本で全くといっていいほど知られていなかったころから、海外に出て活動していた。
1990年~95年ITU公式トライアスロン世界選手権日本代表、2004年ISLAグアムインターナショナルトライアスロン優勝、2007年ホノルルトライアスロン優勝、最高峰世界選手権であるハワイアイアンマントライアスロン12回出場etc.……。
日本のトライアスリートの第一人者としてこのスポーツを引っ張っている自負があった。ただ、そうして世界の大会に参加しているうちに、白戸の中に何か漠然とした違和感のようなものが澱のように淀んでいった。その澱は海外の大会に参加するごとに増していくのを感じていた。


 「海外と日本で、大会の雰囲気がぜんぜん違うんですよ」
海外の大会は厳しさの中にフレンドリーな明るさと楽しさにあふれていた。競技としてのレベルは高くとも選手もギャラリーもそのスポーツを楽しんでいる雰囲気があった。しかし、“○○な感じ”というのは相対的なものだ。慣れない海外遠征ということで、自分がことさらに楽しく感じているだけとも思っていた。しかし、遠征を重ねていくうちに、それは明らかに違うと認識できるようになった。

 次に、その違いを考えて行くうちに、自分の愛したトライアスロンというスポーツが、日本で正しく認知されていないためではないかと思うに至った。それが白戸の90年代だった。

 欧米と日本とのスポーツ感の違い。それは野球とサッカーを例外として、日本のあらゆるアスリートにとって一つの壁としていかなるときも存在してきた。
「欧米やオーストラリアで『トライアスロンをやっている』と言うと最大級の敬意を得られます。たとえトライアスロンというスポーツ自体を相手がやっていなくとも、お互いのスポーツ観を飲みながら交換するようなことはしょっちゅう。それがトライアスリート同士であれば、言葉が十分に通じなくともすぐに打ち解けることができます。同じスポーツをやるもの同士でテーブルを囲み、初めて会ったのにその家に泊まりに行ったこともありましたね。ところが日本だと『で、仕事は何をやられているんですか?』とか『余裕あるんですね』とか言われちゃう。世界の中で、トライアスロンのポジションは高いのに、日本はまだ全然だな……と」

 当時の白戸には、だからといって自分がどうすればいいかは分からなかった。しかし、念ずれば通ずとは良く言ったものだ。そんな漠然とした思いを募らせていた時、ある自転車専門雑誌からコラム執筆の依頼が舞い込んだのだ。もちろん、白戸はこれまで原稿など書いた事がなかった。
「セカンドキャリアを考えた時、いろいろなチャンスに挑戦しておいた方がいいかなと思ったんです。自分を一つの型に押し込もうとするのは良くないと。選手としての自分以外に、指導者になるかもしれないし、ショップオーナーになるかもしれないし、コメンテーターになるかもしれないし、と考えたわけです」
こうして「言っちゃ悪いけど文章の練習ができてお金までもらえるなんてラッキー」くらいに思って始めてしまい「最初の一年は拷問を毎月受けてるかと思った」連載は結果15年ほども続くことになる。こうしたことをきっかけにして、テレビのコメンテーターなどの仕事をこなすようになった。

 

生きる上での知恵はトライアスロンに教わった

 自分がこれと決めた”本業”以外のことに一歩、踏み出すことは、勇気がいることでもあるだろう。失敗する自分、恥を書く自分。そうしたイメージを、白戸は軽やかに乗り越えていった。
「難しく考えない事です。ダメな時はダメなんですよ。ボクが大事にしていることは、その状況を楽しむことなんです。それはトライアスロンで学んだ生きる術なのかもしれません」

 トライアスロンは、スイム、バイク、ランの3種を行うスポーツだ。その過酷さのイメージから、体力勝負的なイメージも強い。しかし、実は、体力があるだけでは勝てないというのがトライアスロン経験者なら誰でも思う事という。
「基本的に1+1+1=1という不思議なスポーツなんです。それぞれ全部得意で体力が有り余っていても3には出来ない。失敗することがあるんです」
スイムでアドバンテージを狙って飛ばしてしまうと、消耗してしまい次のバイクとランでせっかく築いたアドバンテージ以上のロスが出てしまうこともある。一方セーブしすぎてしまえば、自分のポテンシャルをフルに発揮できずゴールしてしまいタイムが出るとは限らない。そのレースすべてにおいて、自分自身をコントロールし、“自分VSレース”という関連性を終始自分自身でコントロールしなければならない。

「つまり、自分をコーディネイトすることなのです。自分を客観的に俯瞰する力ですね。そいういう意味で知的な楽しさがあるんですよ」

 ゴルフがそうであるように、トライアスロンもまたメンタルスポーツといえる。そして、白戸は生き方のスタンスをトライアスロンから学んだ。自分を相対化し、客観視する術だ。
「一緒にスタートする人というのは敵ではないんです。トライアスロンは、ヨーイドンで一斉にスタートしますが、対峙すべきは……」
と白戸は自分の胸を指差して言う。
「自分なんです」

トライアスロンには人生の縮図があった


 トライアスロンと並行して挑戦していたアドベンチャーレース「レイドゴロワーズ(※)」では、血中酸素濃度が危険領域のまま山を越え、疲労で寝ようとして凍死しかけたこともあった。スイム3.8km、バイク180km、ラン42.195kmを一人で走る最高峰ハワイアイアンマントライアスロンでは、一般男性の一日の必要カロリーの約2倍の4000kcal以上を1レースで消費し、10数リットルの水分を補給するようなのシチュエーションに追い込まれる。

そんな時、白戸は「なんでこんなことやっているのか?」「もうリタイアしたい」と思う事もあれば、「帰ってビール飲みたいな」と思うこともあるという。バイクのメカトラブルはレギュレーション上、自分で直さねばならないので「イライラする事も焦ることもある」。かと思えば「頭の中が真っ白になって走っている」こともある。10数時間に及ぶアイアンマンレースでは、苦しい瞬間と非常に集中し快楽を感じている時間が交代で現れる。

 白戸は、トライアスロンに人生の縮図を見た。
「それで『いちいちネガティブ考えていたら損じゃん』と思える事を学びました。パンクしたらそのお陰でそこのギャラリーの人と会うことができたのかもしれないし、補給食を落としたら『ああ、あの味にも飽きたから次に別のを取ればいいや』というように。物事ってそういうことなんだろうと。体力面でメンタル面で極限の冒険をすると、それより下のことは冒険でなくなる。キャパシティがあがって『ま、そんなもんか』とね」

 白戸はトライアスロンというスポーツに、これまでの半生を捧げる事で、生き方を学んだ。
系列の大学に入るのがほぼ100%という関西の私立高校で、スポーツ推薦で他の私立大学に進学した。それは学校始まって以来の出来事だったという。スキーから転向して、誰も知らないトライアスロンに挑戦した。自分のやりたい事をやっている人が前にいなかったから、「周りと同じコースを歩く」という選択肢は白戸の頭の中にはなかったのだ。
「まぁ、マニュアルがなくて行き会ったりばったりとも言いますが」と白戸は笑う。「でも、冒険ってそういうもんでしょう?」
「人生、これすなわちフルに冒険なんだと思います。結果的に冒険しようと思ったことはないのですが、僕は人の道をトレースするのでは面白くない。だがらそれぞれのピリオドで冒険をしていますよ。そして、その時の勇気と知恵はトライアスロンに学んだのです」

 

Data

 

ATHLONIA http://www.athlonia.com/
白戸太朗オフィシャルサイト http://www.maidotaro.com/

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Taro Sirato
白戸太朗

スポーツナビゲーター


1966年11月1日生まれ。日本におけるトライアスロンの第一人者。1992年より日本人として初めてワールドカップシリーズを転戦。並行して1999年よりアドベンチャーレースに参加し世界を転戦。トライアスロンとアドベンチャーレースの双方で数々の戦績を残す。選手として活躍すると同時に90年代半ばより雑誌原稿執筆、テレビのコメンテーターなどのメディア活動を始める。現役選手としての経験と目線をいかし、各地のトライアスロン大会のプランニングを行う。2008年よりトライアスロンの普及のためにATHLONIA(アスロニア)を設立、トライアスロンの普及、発展を目指す。

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