立ちこめる暗雲
室屋義秀は安堵していた。
ウィンザーでのレッドブルエアレース第4戦を前に、キャノピーが吹き飛ぶという前代未聞の事故が発生。以来、代替機の手配、整備に可能な限りの時間を費やしてきたが、どうにかニューヨークの第5戦には間に合わせることができた。
一方で、室屋は疲れ切ってもいた。第4戦翌日の月曜日に代替機の準備が整うと、火、水曜日の2日間は休養に充てることを決めた。
とはいえ、第4戦と第5戦のレース間隔は2週間しかなく、のんびりとはしていられない。木、金曜日とウィンザーでトレーニングを行うと、土曜日にはバッファローへ飛んでアメリカ入国の手続きをし、ニューヨークへと向かわなければならなかった。
ところが、土曜日はあいにくの雨模様で、移動は中止。いくぶん天候が回復するとの予報があった日曜日も、一度は飛び立ったものの、視界が悪く、結局ウィンザーへ引き返すはめになった。翌月曜日。室屋はあらためてバッファローへ向かって飛び立ったが、天候が再び悪化。だが、もはや引き返すことすら難しく、思うに任せない状況に苛立ちを覚えながらも、どしゃぶりのバッファロー空港でなかば強引に着陸許可を取った。
通関手続きを終えると、今度はニューヨークまでの航路探しである。
各地の天候を確認すると、方角的にはバッファローからニューヨークは南東方向だが、一度北東に向かってから南下していくと、悪天候を避けられそうだと分かった。室屋はまるでパイロット免許を取得したころのように、細かく航路を確認し、ニューヨークへ向かった。
この迂回は大正解だった。最短なら1時間ほどで到着するところが、2時間半もかかったが、ニューヨークの街が見えてくるころには快晴となり、震えるほど寒かったコックピットも徐々に暖かくなっていた。日没までは1時間ほど。「ギリギリだったが、どうにか間に合ったな」。3日がかりでようやくたどり着いたニューヨークを前に、室屋は次第に肩の力が抜けていくのを感じていた。
着陸態勢に入り、順調に高度を落としているかに見えた機体は、だがしかし、オーバースピードで滑走路に近づいていた。
プロペラにまさかの傷
着陸の瞬間、わずかに機体が跳ねた。だが、室屋はこれを落ち着いて制御する。
「着陸のときに、少し(機体の)お尻を上げてやると、跳ねるのが収まるんです。決して特別なことではなく、一般的に使うテクニックですね」
とても上手とは言えなかったが、それほど悪い着陸でもなかった。
「誰かに見られてたら、恥ずかしいな」
室屋にしても、そんなことを思いながらあたりを見回したのだから、重大事と考えていたはずがない。
ところが、である。「あっ」。機体に歩み寄ってきたエアレースのテクニカルディレクターが、思わず声を上げた。
機体から降りた室屋が驚いて駆け寄ると、テクニカルディレクターの視線の先で、プロペラが小さな傷を負っていた。機体が跳ねるのを収めようとした際、プロペラが地面をこすっていたのである。
室屋は全身から力が抜けていくのを感じ、しばらく動くことができなかった。
地面にこすったといっても、わずか1cmたらず。室屋でさえ、その瞬間には気がつかなかった程度である。しかし、法律上、プロペラが地面をこすった場合には、エンジンのオーバーホールが義務づけられる。エンジンのシャフトにダメージを負っている可能性があるからだ。
室屋も当然、そのことは認識していた。瞬時に事の重大さに気づいたからこそ、小さな傷に目の前が真っ暗になったのだ。
室屋の操縦を狂わせた原因は、様々考えられた。例えば、ハンネス・アルヒから借りた機体は軽量化のため、足の部分が短くなっている。つまり、自機に比べ、高さが低かったことで、わずかに着陸のタイミングが合わなかったというわけだ。
「他にも、スロットルのアイドルの部分が少し違ったり、細かな感覚が違ってたのは確か。でも、すでに練習でもガンガン飛んでいたし、そんなことは分かってたことだから」
室屋の言葉通り、そうした外因は無関係とまでは言えない。が、恐らく最大の要因は他にある。それまでのハードスケジュールによる心身両面での疲労。それが目に見えない澱となって、いつの間にか室屋のなかに積もっていたのだろう。
「オーバースピードだったのも分かっていたから、着陸をもう1回やり直せば済んだ話なんです。なのに、それまでの疲れと、ようやく着いてホッとしたのもあって……、やっと間に合わせた機体を壊しちゃった」
苦渋の決断を下す
そこからは、レースに間に合うのかどうか、再び時間との戦いが始まった。
エンジンのオーバーホールをすれば、とてもレースには間に合わない。スペアエンジンを乗せ換えるにしても、すべてのパーツをエンジンに合わせて組んであるため、それを入れ替えるとなると、時間的にかなり厳しい。
そこで室屋は現状のダメージの度合いを測るため、計測機を用いて、シャフトのズレを測ってみた。「これくらのヒットなら、エンジンにダメージはないはず。それは過去の例が証明している」。案の定、ズレはなかった。
その一方で、これは乗客を乗せるセスナではなく、レース機なのだから、そもそもオーバーホールは必要ないのではないか。そんな法律適用の是非にまで議論を持ちこんだ。
だが、最終決定を下すエアレースのテクニカルディレクターが首を縦に振らなかった。「これでは、許可のサインはできない」と。
こうなると、残された手段はスペアエンジンの乗せ換えしかない。
エンジンとプロペラの手配はできる。パーツもどうにか集められそうだ。徹夜で作業をすれば、かなり際どいが間に合うかもしれない。しかし、仮に間に合ったとしても、エンジン、プロペラとも旧式のタイプ。パフォーマンスはかなり落ちる。タイムに換算すれば、7、8秒だろう。
「そうまでして出場することが、本当にベストの選択なのか」
室屋は自問自答を繰り返した。
「僕はこれまで20年空を飛んできて、機体を壊したことがない。(ウィンザーで吹き飛んだ)キャノピーはともかく、自分の操縦ミスで機体を壊したっていうのは、これが生まれて初めてなんです」
ウィンザーでは、少々無理をしてでも最後までレースに参戦することにこだわった室屋。それは、パイロットとしての本能からの判断だった。しかし、今回ばかりは状況が違った。
「着陸って僕らからすると、機体を壊すとか壊さないとかのレベルじゃなくて、車に例えれば、ガードレースにこすらないで走れっていうくらいのことなんです。なのに、そこで壊してしまった」
2戦連続で棒に振るわけにはいかない。その一念でようやく間に合わせたにもかかわらず、自らのミスですべてをフイにしてしまったのだ。室屋にショックがなかったはずはない。
「飛行機の事故が起きたときによく言われるんです。『ひとつの事故には3つの主たる要因があって、その背後には300の細かな要因がある』って。振り返ってみると、デトロイトからずっと休みなく、少ないスタッフでやってきて、いろんな無理が生じてた。ここで無理をすれば、次は大事故が起きてしまう。どこかで仕切り直さなければいけないなって思ったんです」
室屋の下した結論は、レースキャンセル。苦渋の決断だった。
「初めて(機体を)壊したことはショックでしたけど、技術的に不安があるわけじゃない。飛べと言われれば、飛べたと思う。でも、これでレースは終わりじゃないから」
残すはヨーロッパラウンド3連戦。年間7位の目標達成は苦しくなったが、2年目のシーズンを不本意な形で終わらせるわけにはいかなかった。
「ここ3戦はほとんど乗ってないから、体を慣らしていかないと。不安はあるけど、次戦のドイツでブラッシュアップして、残り2戦で勝負しますよ」
そう言って、室屋は挽回の機会をうかがっていた。
しかし、それほどの猶予が与えられることはなかった。室屋の決意をよそに、この後、レッドブルエアレースは思わぬ展開を迎えることになる。
レッドブル・エアレース 2010年 年間スケジュール
Yoshihide Muroya
室屋義秀
1973年1月27日生まれ。エアロバティックスパイロットとして、現在まで150か所に及ぶエアショー実績を誇り、無事故。2008年11月、アジア人初のレッドブル・エアレースパイロットとなり、2009年からレースに参戦。参戦パイロット15人中、年間成績は13位、自己最高位は最終戦バルセロナでの6位。ホームベースであるふくしまスカイパークにおいては、NPO法人ふくしま飛行協会を設立。航空文化啓蒙や青少年教育活動の基盤を作っている。ファウスト・エアロバティックスチームのスーパーバイザー。
◎レッドブル・エアレース参戦直前のロングインタビューはコチラ
Team MUROYA
レッドブル・エアレース
Team Deepblues
Cooperation:Red Bull Japan
Photos & Movie:"Red Bull". All other rights reserved.
Text:Masaki ASADA
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