原生の湖・森・山を駆け抜けろ!
――「エクステラ」 前編
1日目―大会前日 原生の自然に体を順応させる
夏の間は避暑地として知られる群馬県利根郡片品村が、トライアスリートの聖地となる数日間がある。生い茂る緑に心地好い陽光が降り注ぐ8月下旬、『エクステラジャパンチャンピオンシップ丸沼大会』が開催されるのだ。「この大会に参加しないと、夏が終わらない」と話すアスリートも少なくない。
「オフロードのトライアスロン」とも表現されるエクステラは、1996年にハワイ・マウイ島で誕生した競技である。現在ではヨーロッパ、南米、北米、アフリカなどの世界17か国で100大会が開催され、日本では2004年から丸沼でチャンピオンシップが開かれるようになった。今年で6回目を数える。
ファウスト辻芳樹は、大会前日の午後に丸沼湖畔の大会事務局のある「環湖荘」に到着した。14時を少し過ぎた頃だった。
標高1430メートルの湖畔に立つ環湖荘は、周辺では有数の温泉宿である。野鳥のさえずりを当たり前のように楽しめる環境は、歩いているだけで清々しい。
都心から車を飛ばしてきた辻は、渋滞に巻き込まれた影響で到着が遅れていた。身体を休めたい欲求もあっただろう。しかし、宿泊施設にチェックインすると、そのまますぐに丸沼へ向かった。「軽く泳いでおきたいんですよ」と言う。
「水の感触だけ、つかんでおきたいんですね。この時間ならまだ温かいですけれど、陽が落ちると冷蔵庫みたいに冷たくなってしまうので」
水際で身体をほぐし、足元から水に入っていく。「冷たい!」と、悲鳴のような声がこぼれる。足首から膝、膝から腰と、温泉に浸かるように身体を
水になじませていく。スイムキャップをかぶり、ゴーグルを装着すると、口もとが引き締まった。
「それじゃ、行ってきます」
およそ15分後、辻が岸に上がってきた。水分をたっぷり含んだウェットスーツは、泳ぐ前より色を濃くしている。
どれぐらいの距離を泳いだのかという問いかけに、「200メートルを2本ですね」と即答する。レース前日の丸沼には、距離の目安となる目印はまだ用意されていない。迷いのない回答は、アスリートとしての資質の高さをうかがわせるものだった。
「予想よりも水がきれいでした。去年とは全然違いますね。去年は大会の数日前が台風だったので、砂が入ってきたりしてかなり濁っていたんですけれど。そうそう、魚が見えましたよ」
淡水魚とのささやかな出会いに、辻の表情が穏やかになる。
「こんな大自然のなかで、思い切り遊べるんですよ。最高の贅沢じゃないですか」
宿泊施設へ戻る途中で、男性が近づいてきた。大会の運営に携わっているという小学校の同級生だった。
「雨が降ってないから、バイクのコースがドライだそうだ。でも、場所によってはかなり滑るみたいだから、少し走っておいたほうがいいんじゃないか」 知己の言葉は、辻に緊張感をもたらした。静かにうなずく表情が、引き締まっていく。「ちょっと、すいません」。小走りで去っていく背中が、宿泊施設の玄関に消えた。
再び現れた辻は、ヘルメットを脇に抱えていた。ウェアもスイム用からバイク用に着替えている。
「バイクの試走に行ってきます」
友人に先導された辻のバイクが、森林のなかへ溶け込んでいく。
大会事務局が置かれた環湖荘前では、メイン会場の設営が行なわれていた。スタートとゴールのゲートや、仮設テントが設置されていく。工具を持った男性スタッフが慌ただしい。
続々とアスリートが集まってきた夕刻前には、ほぼすべての準備が整っていた。
2日目―エクステラ当日 今大会の向こう側に見据えるもの
エクテスラ チャンピオンシップが行なわれる当日は、小雨の舞うコンディションだった。湿り気を帯びた空気は、前日までより重く感じられる。灰色の絵の具を溶かしたような雲が、うっすらと空を覆い尽くしていた。
10時40分のブリーフィングを前に、辻が姿を現す。今朝は6時30分に目が覚めたという。
「朝御飯はほとんど食べられなかったんです」
緊張しているから、と付け加えるが、表情に固さはない。知人に声をかけ、友人に声をかける。リラックスした雰囲気だ。
今大会の会長でありプロデューサーを務める白戸太朗氏が、辻を見つけて声をかけてくる。二人の表情に笑顔が弾け、ガッチリと握手が交わされる。壮大なミッションとともに丸沼へやってきた辻にとって、白戸氏は大切なアドバイザーだ。
「10月にハセツネ(後述)に出るんです。それをクリアするには、いまの時点で50キロは走破しておかないといけない。それで今回は、エクテスラと明日のトレイルランの両方に出場することにしたんです。タロウさんにも、とにかく頑張って二日間走りきりましょう、と言われていまして」
1・2キロのスイム、25キロのバイク、10キロのランをクリアするトレイルランは、合計で36・2キロである。トレイルランは30キロだ。
一方で、通称「ハセツネ」と呼ばれる『ハセツネCUP(日本山岳耐久レース・長谷川恒男CUP)※』は、奥多摩山域の71・5キロのコースを24時間かけて走り抜ける日本最高峰のトレイルランニングレースだ。2日間で66・2キロを走破することで、辻は今大会を『ハセツネ』への重要なステップにしようと考えたのである。
「それにね……」と言って、辻は言葉をつなぐ。
「去年のエクステラ、完走することができなかったんですよ。あの悔しさを何としても晴らさないといけないですから」
淡々と明かされていく語り口とは対照的に、辻は壮大な野心と覚悟を持って今大会に臨んでいたのである。大きく繰り返された深呼吸は、2日間にわたる決意を身体全体に染み込ませるための作業だったのかもしれない。
だからといって、悲壮感を漂わせるのは彼の流儀に悖る。「エクテスラはね、子どもみたいに泥んこになって遊ぶものなんですよ」と、辻は口調を和らげた。
目標は大きいけれど、不安はない。やるべきことはやってきたアスリートならではの境地で、辻はスタートを迎えようとしていた。
エクステラという試練
1分前のアナウンスが流れると、ざわめきが静まっていった。緊張感というものに色があるとすれば、スタートを待つ競技者全員がその色に染まっていたに違いない。
5、4、3、2、1……静寂を切り裂くホーンの音とともに、競技者たちが弾かれたように湖へ飛び込んでいく。スタート直後はひと固まりだった集団が、またたく間に細長い線になっていく。
レースを引っ張るのはエリート部門のトップアスリートだ。なかでも観衆を沸かせたのは、オーストラリア出身のマット・マーフィー選手である。3つのブイが湖面に作り出す一周600メートルのコースを、15分を切る速さで泳ぎきったのだ。マーフィー選手に続いてエリート部門の選手が次々とスイムを終え、荒い息でトランジッションエリアへ走っていく。
辻は22分44秒で帰ってきた。総合で48位のタイムである。申し分のない滑り出しだ。彼もまた息づかいは荒いが、足取りはしっかりとしている。
エクテスラの過酷さが明らかになるのは、辻がスイムを終えてから数分後だった。湖から上がってきた選手は、岩礁にしかれた赤いマットを走り抜けてトランジッションエリアへ向かうのだが、コースから外れてしまった選手がいたのだ。スイムでのリタイア──参加選手たちの間で“魔の丸沼”と囁かれる過酷な環境が、いきなり牙を剥いたのだった。
トランジッションエリアで手際よく準備を整えた辻は、タイムの近い選手たちと競うようにバイクのコースへ飛び出していく。運営スタッフや出場選手の家族の声援を浴びると、すぐに本格的なオフロードが待ち受けている。
彼らが駆け抜けるコースは、「道」であって「道」ではない。言うまでもなく、バイクのために用意されたものではないのだ。
アスファルトで舗装されているわけでなく、障害物が取り除かれているわけでもない。整備されていないままの木の幹があり、鋭利な岩が通行を困難にする。細かなアップダウンはもちろん、急激な昇り坂や下り坂もある。バイク一台が通過するのがやっとの細い道では、先行する者を追い抜くのは難しい。バイクのコントロールを誤ると、湖に転落してしまう危険さえ潜んでいる。
野鳥の声を聞きながらゆっくりと歩く一般の登山者には、歩きがいのある道のりかもしれない。だが、バイクを駆って通るにはまったくと言っていいほど適さない。「酷道」とでも言えばいいだろうか。自然と格闘するエクテスラの本質が、剥き出しになってアスリートに襲いかかってきた。
全長25キロの過酷なコースには、辻も相当にてこずった。スキーの急斜面のようなコースでは、バイクをかついで必死にバランスを取りながら駆け下りた。前方や後方のバイクに気をつけないと、思わぬ形でトラブルに巻き込まれてしまうこともある。肉体はすり減っていくが、神経は鋭敏でなければならない。
林道を抜けると、オフロードの砂利道が続く。永遠に続くかと思われる登り坂は、競技者たちの闘争本能を根本から奪い取っていく。辻もまた、例外ではなかった。
「あのジープロードですね。あそこは本当に、いつまで続くんだろうっていうくらい長かった。40分くらいひたすらに登るんですよ。単調なうえにキツいから、だんだん腹が立ってきて(笑)。身体的にもこたえましたね」
ゴールが近づくにつれ悲鳴を上げる肉体
トランジッションエリアへ戻ってきた多くの競技者は、ほぼ例外なくウェアが泥にまみれていた。擦り傷や切り傷を負った者もいたし、肩を脱臼した選手もいた。
辻は、無傷だった。
「8回も転びましたけれど(笑)。僕ね、けっこう防御反応がいいんですよ。危ないと思ったら、自転車を投げちゃいましたから。一度だけ前から転倒しましたけど、それも土の上だったのでクッションになってケガはしませんでした」
だからといって、トラブルがなかったわけではない。林道を抜けた坂道で、チェーンが外れるアクシデントに見舞われたのだ。バイクから降りて修理をする辻を、後続の選手たちが次々と追い抜いていく。速くレースに戻らなければという気持ちと、慌てずに直さなければという気持ちが交錯した。
「あれはちょっと、焦りましたね。冷静に冷静に、落ち着いて落ち着いて、と自分に言い聞かせていたんですが……」
さらなる試練はランだった。トランジッションを終えて、湖畔のコースへ駆け出していく。デコボコとした岩場に、足を持っていかれそうになる。それ以前に、両足にうまく力を伝達できない。少年時代からラグビーで鍛え、成人後はウエイトトレーニングやマラソンで磨き上げてきた44歳の肉体が、悲鳴をあげつつあった。
「トライアスロンでもそうなんですが、バイクからランへのトランジッションの段階ですでに、ものすごい筋肉痛なんですよ。誰だってそうなんでしょうけれど、とにかく足が痛い。しかも湖畔の砂利道をずっと走って、それが終わったらと思ったらロープを使って登らなきゃならないし……死んでしまうんじゃないかというぐらい、本当にキツかったですねぇ」
自分はいま、どのあたりを走っているのか。中位なのか、下位なのか。順位は分からなかった。気にならなかった、と言ったほうがいいかもしれない。
もとより辻は、誰かに勝つためにエクステラに出場しているわけではない。上位入賞者に与えられる世界大会の出場権(※)を、狙っていたわけでもない。リタイアに終わった昨年の悔しさを晴らし、『ハセツネ』への手応えをつかむことが、彼にとって唯一無二の目標だった。ライバルは他ならぬ自分自身だったのである。
前半終了のホイッスル
辻がゴールテープを切ったのは、出場選手のなかで120番目、男子では108番目だった。タイムは4時間25分11秒である。
「エクステラはトライアスロンのオリンピックディスタンスの、1・5倍くらい大変なんです。トライアスロンが3時間くらいですから、目標タイムは4時間半ぐらいでしょうか」
レース開始直前に、辻はこんな話をしていた。実際に、目標を5分近く上回るペースでゴールに飛び込むことができた。
成功を後押ししたのは、辻らしい計算だった。
「昨日のバイクの試乗で、走り過ぎなかったのが良かったですね。あと5分長くやっていたら、今日はダメだったでしょう。自分の限界は分かっていますから、そのあたりはうまくコントロールできたと思います。一週間前からテーパリングをしていましたので、昨日は筋肉の意識を甦らせることだけを考えていたので」
トレーニングの強度は維持したまま、時間や距離を減らして大会にピークを合わせるテーパリングを、辻はたったひとりで成功させたのである。過去の経験がなければ、できることではないだろう。
ゴール直後に「どうですか?」と感想を聞かれると、「聞くよりも、どうかやってみて下さい」と、いたずらっぽく切り返した。両手を腰にあてて呼吸を整えているが、憔悴しているようには見えない。目にはまだ、十分な力が宿っている。「バイクでずいぶん抜かれちゃったなあ」と、競技を振り返る余裕もあった。
しかし、チャンピオンシップとトレイルランにダブルエントリーしている辻にとって、この日のゴールはすべての終わりではない。12歳から22歳まで没頭したラグビーに例えれば、前半終了のホイッスルを聞いただけだ。
チャンピオンシップ終了後のパーティーは、時折降り注ぐ雨のなかで行なわれた。ライトアップされたメイン会場のアスファルトが、鈍色に照らされている。
「明日も雨かもしれないんですよ。あまりにも強いと、トレランが中止になるかもしれないそうで。何とか持ってほしいんですが……」
そう言って辻は、心配そうに空を見上げた。
エクステラ ジャパン
http://www.xterrajapan.net/
Text:Kei Totsuka
Photos:Hiroyuki Origuti
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