原生の湖・森・山を駆け抜けろ!
――「エクステラ」 後編
3日目―標高2500mの山脈を越える30キロのトレイルランへ
エクステラの翌日早朝。再び大会会場に姿を現した白いキャップを被った辻が、ニッコリと笑顔を浮かべた。 右手の親指で空を指す。大丈夫そうですね、という合図だ。
前日と同じように空は重く、うっすらと靄がかかっている。雨が控え目にウェアを叩くこともあるが、競技の実施に支障はない。
トレイルランのメインステージとなるのは、日本百名山のひとつである日光白根山だ。エクステラと同じメイン会場からスタートし、通常ならロープウェーを使う丸沼高原のゲレンデを駆けのぼる。そこから森林を縫うように標高を上げていき、白根山の頂きを目ざす。さらに五色沼、前白根山、五色山、弥陀ケ池と、細かなアップダウンを繰り返しながら標高を下げ、丸沼高原のゲレンデを下る。総上昇量2015メートル、距離にして30キロのレースだ。
また、コースには3つの関門が設けられており、決められた時間に関門を通過できなければ、その時点でカットオフされてしまう。レース全体のカットオフタイムは、8時間15分に設定された。
エクテスラに比べて競技時間が長いため、必然的にスタート時間は早い。受け付け開始は5時30分だ。周囲が暗闇から抜け出した6時30分頃には、スタート前特有の緊張感にメイン会場が包まれていた。
この日の辻は、ロングスリーブのジップトップとロングタイツという装備だ。フィンガーレスのグローブは、給水やサプリメントの補給をスムーズにするためだろう。「37」のゼッケンは腰に巻かれ、右前で数字が認識できるようになっている。小さなリュックのなかには、特製のサプリントが用意してある。
エクステラの翌日、肉体の限界へ挑む
二日にわたる試練、後半戦の幕が切って落とされた。
7時10分にコースへ飛び出した競技者は、スタートからしばらくは緩やかな舗装路を登っていく。トレイルの入り口は、およそ1・5キロ先の急勾配の小さな滝だ。水の流れに逆らいながら、石から石へと足場を確保していく。石や岩を効果的に活用するのは、ぬかるみに足を止られないようにするためだ。ゆっくり、確実に登る。走ることはできない。
辻がトレイルの入り口にやってきた。後ろには15人の選手しかいないが、無理のないペースである。男女合わせて220人が出場する参加者のなかで、彼は中盤からやや後方をスタート地点に選んでいた。最初から無理に飛ばす必要はないですよ──白戸氏から託されたアドバイスは、長い距離を乗り切る際の燃料であり、ブレーキにもなっている。
滝を登りきると、森林を分け入るようなコースが続く。草木をかき分けなければならないが、自然を破壊してはいけない。あるがままの自然を受け入れ、楽しみながら競技を続けるのが、トレイルランの基本ルールだ。その一方で、ガードレールのすぐ傍を通り抜ける箇所もある。地図上では読み取れないコース設定が、競技者たちを戸惑わせ、ときに喜びを与えていく。
辻は全体からやや後方のポジションを保っていた。表情に苦しさや険しさは滲んでいない。スタートから6キロあたりまでは、イーブンペースで距離を稼いでいった。
競技者を待ち受ける最初の関門は、丸沼高原のゲレンデだ。スキーやスノーボードで滑り降りてくる標高差200メートルの斜面を、駆け上がらなければならないのである。
ゲレンデを登り切り、エイドステーション(※)を越えると、今度は森林をひたすらに登っていく。白根山登山のコースにも重なるが、ハイキング気分などはほど遠い。目印となる白いビニールと、先行するアスリートが残すわずかな足跡を頼りに、森林を分け入っていくのだ。登り、走り、滑り、歩き、登る。平坦に感じられる道も、実は緩やかな登り坂になっているところが多い。じわじわと疲労が忍び寄ってくる。
しかし、「過酷という言葉しか思い浮かばない」という白根山山頂へのルートをクリアすると、絶景が迎えてくれた。深い霧を抜けると、見事な青空が拡がっていたのだ。
「山頂ではね、雲の上を走っていたんですよ。真っ白でね。『もののけ姫』のなかにあったような、ものすごく幻想的な世界でした」
もちろん、陶酔に浸る間にも時計の針は進んでいく。腕時計に目をやると、切迫する現実に気づかされた。
「第二関門を突破しないと!」
白根山山頂の第一関門通過から2時間20分後、スタートから6時間20分後に山頂駅付近の第二関門を通過すれば、カットオフされることはない。記録は公式なものとして残る。
マイペースを貫ければ十分に間に合うが、かといって十分なマージン(時間的なゆとり)があるわけでもない。辻を追いかけてくる女性の競技者も、同じように時間を気にしていた。
はやる心を抑えながら、辻はコースを駆けていく。森林を縫っていくコースでは、転倒して足を負傷する競技者もいた。オーバーペースは禁物で、一般の登山者がいれば道を譲り合わなければいけない。ペース配分を考えて、ときには歩く勇気も必要だ。
だが、第二関門は通過しなければならない。何としてもゴールに辿り着かなければならない。焦りが増幅する。それまでとは違う種類の汗が吹き出ていることを、辻は感じていた。
「時間、大丈夫ですか?」
第二関門の直前でコースガイドのボランティアを見つけた辻が、走り抜けながら話しかける。腕時計に視線を落としたボランティアが、「大丈夫ですよ!」と辻の背中に告げる。
そこから150メートルほどの山頂駅付近で、すでにゴールの資格を得ていることを辻は知らされることとなった。焦燥感が安堵感に変わる。思わずため息がこぼれた。
第二関門付近の自動販売機で炭酸飲料を買い、水分と糖分を同時に補給する。標高差200メートルの斜面を、今度は駆け下りていかなければならない。
「あの下りはですね、走っているというよりも飛んでいる感覚です。リズムを崩さないように、着地点だけを見つけて。土と木の上にだけは着地しないというのが、トレランのルールなんですよ。土は濡れていると滑るし、木はもう絶対に滑るでしょう。石の上を飛んで行くように、ポンポンと蹴るように下っていかないといけないんです」
ハセツネCUPへと続くゴール
スタートから7時間33分後、辻がゴールへ戻ってきた。テープが張られる。力強い足取りでゲートに迫ると、オフィシャルカメラマンにポーズを取る余裕を見ながらテープを切った。
正式なタイムは7時間33分54秒だった。男性では133人目のフィニッシャーである。男性では最後から9人目にゴールをした競技者、という言い方もできる。
いずれにしても、順位はあまり意味をなさない。エクテスラとトレイルランのダブルエントリーの末に、2日間で66・2キロを走破したという事実こそが、辻にとっては何よりも価値があるのだ
ゴールの瞬間には、どんな思いが込み上げてきたのだろう。
辻の頬が緩んだ。
「それはもう、やったあ、という感じですよ。しかし本当に疲れました・・・。でも、自然を壊さずに人間がうまく造ったという、完璧にデザインされたコースでした。本当に綺麗な、見事なコースでした。それにしても……」
話を続ける前に、辻は友人たちに囲まれてしまった。握手を求めてくる者がいて、肩を叩いて労う者がいる。すでに着替えを済ませた競技者も少なくないが、メイン会場にはレースの熱気がなおも漂っていた。
10月の『ハセツネ』に向けて、辻の身体には様々な情報が刻まれたことだろう。手応えをつかみ、課題を整理することができたはずだ。未知の世界だった『ハセツネ』は、確実に現実となりつつある。
ひとりになった辻が、「いやあ」と呟く。ゴールの興奮は過ぎ去り、心地好い疲労が追いかけてきているようだ。
「それにしても、もう当分は走りたくないな、という気持ちですね。いくら走っても、ロードのように距離をゲインできないんですから。本当に疲れましたよ」
白いキャップを脱いだ首筋を、高原の爽やかな風が撫でていく。辻の瞳は、昨日とはまた違う決意に輝いていた。
エクステラ ジャパン
http://www.xterrajapan.net/
Text:Kei Totsuka
Photos:Hiroyuki Origuti
2009/10/15