魂を解き放て!
2009年無重力の旅
5分間にロマンを求めた男
桜前線が駆け足で北上してきた3月20日、
成田空港第一ターミナルでテレビカメラを向けられている男性がいた。3連休の初日を迎えたターミナルは、出発前の家族連れやカップルで混み合っている。
黒のジャケットにジーンズという服装で取材を受けているのは、某外資系IT企業に勤めるサラリーマンである。意思の強さを感じさせる瞳を持つその男は、稲波紀明という。
「英国のヴァージン・ギャラクティック社※」が2010年以降に民間初・商用での実施を予定している「サブオービタル宇宙旅行」──準軌道旅行とも弾道飛行とも説明されるこのツアーでは、宇宙空間での無重力状態をおよそ5分間体験できる。
訓練期間はわずか3日間で、費用は約20万ドル(約2000万円)である。
最初にフライトする100人の『ファウンダー』は、抽選によって決定するほどの人気ぶりだった(ヴァージン・ギャクティック社が、すでに抱えている顧客リストからセールスをしたケースも含まれる)。日本からは3人が『ファウンダー』となり、そのひとりがFaustメンバーの稲波である。フライトが翌年に迫ってきたことで、前述のように彼を追いかけるメディアも増えてきた。
もちろん、われわれFaust A.G.でも、彼が宇宙へ旅立つ過程を逐一フォローしていくつもりだ。稲波のFaustとしての最初のアプローチが、今回のQUEST──ラスベガスでの無重力体験なのである。
稲波は興奮を抑えるように語る。
「今回の渡航は、すごく貴重な経験になると思います。以前、重力に耐える訓練を受けたのですが、これはもう、実際に経験してみないと絶対に分からない感覚でした。今回も、自分の身体がどのような反応をするのか、それがすごく興味深いんです」
自分の身体がどう反応するのか、想像さえできないところに身を置く。思わず武者震いのするような体験だ!
※英国のヴァージン・ギャラクティック社が(中略)予定している「サブオービタル宇宙旅行」……詳細は、後日公開の「Road to Space」にて紹介。
ヴァージン・ギャラクティック社
http://www.virgingalactic.com/
稲波らしさ、日本人らしさ
取材を終えた稲波は、日本航空のチェックインカウンターへ向かう。ラスベガスへは直行便がないため、今回はロサンゼルス経由。ロスからはアメリカ航空を利用する。フライトはほぼオンタイムで運航され、稲波を乗せたアメリカン航空は3月20日15時過ぎ(現地時間)にマッカラン国際空港へ降り立った。
飛行機を降りてターミナルへ足を踏み入れた瞬間、派手な電飾で彩られた空間が視界に飛び込んでくる。スロットマシーンがズラリと並んでいる。さすがはカジノとショーの街! ラスベガスに来るのは初めてでないが、この瞬間はいつも胸を躍らされる。
ホテルにチェックインした稲波は、すぐに明日の準備に取りかかった。と言っても、トレーニングウェアに着替えてランニングをするとか、テキストを使って予習をしておくとかいうわけではない。機内に何を持っていくのかを、最終的に決めておこうと考えたのだ。およそ7分間の無重力体験を、できるだけ有効に使いたい。重力のない状態に身を任せるだけでなく、そのわずかな時間で自分らしさ、日本人らしさを表現したい──稲波はずっとそう考えてきた。
FaustA.G.のスタッフが、成田空港で渡してくれた荷物を取り出した。事前の打ち合わせでアイディアを出し合った小道具だ。しゃぼん玉のセット、けんだま、それに紙ヒコーキ・・・・・・。紙ヒコーキは、ヴァージン・ギャラクティック社とFaust A.G.のロゴがプリントされた特製だ。
事前に送付された資料には、機内への持ち込みに関する記述はなかった。何はOKで、何はNGなのか。現場で確認するしかない。3つのアイテムをタオルの上に整え、きれいに巻いて小さなカバンに戻す。タオルは“空飛ぶ絨毯”のようなことができないか、というアイディアから機内に持っていこうと考えたものだった。柔らかくて軽いので、体験中の動きを制限されることもない。
前夜はアルコールを控え目に、十分に睡眠をとることをお薦めする──資料に記されていた注意書きを丁寧になぞるように、稲波は早めの夕食を済ませた。そうはいっても、ここはラスベガスである。明日のフライトの運試しの意味も込めて、夕食後にカジノへ足を運んだ。巨大なスクリーンでは、NCAAのバスケットボールがライブ中継されていた。
手持ちのドル紙幣は、1時間ほどで3倍に膨らんだ。勝っても負けても1時間で戻ると決めていたので、稲波はそこでカジノを離れた。
悪くない兆候だ。
無重力では泳げない?!
翌朝は朝7時に部屋を出た。朝食を取るために、レストランへ向かう。何人かいる先客は、カジノで一晩を過ごした宿泊客のようだ。
たっぷりのオレンジジュースで、アメリカンなサイズのマフィンを流し込む。“当日の朝はオレンジなどの飲み物を取ってください”──これもまた、資料に記されていた注意事項のひとつだ。
8時に専用車へ乗り込んだ稲波は、ラスベガスのホテル群から15分ほどのところにある『ZER0−G』のオフィスを目ざした。雲ひとつない青空が眩しい。数時間後にはあの上空へ飛び立ち、無重力を体験するのだ。ワンボックスカーの後部座席に座る稲波の胸に、ゆっくりと興奮が拡がっていく。定刻の8時30分に『ZER0−G』のオフィスに到着すると、すでに20人以上の体験者が集っていた。リピーターもいるという。
「おはよう!」
爽やかな笑顔を向けてきたフロントデスクの女性に、パスポートを提示する。国際線のフライトのようだ。搭乗者リストとの照合が済むと、紺のフライトスーツとカバンを手渡された。フロント横のブリーフィングルームへ手招きされる。フライトスーツはジーンズなどの上から着用するので、周囲を気にせずに着替えることができるのだ。
ブリーフィングルームには、ミネラルウォーターやフレッシュジュース、コーヒー、サンドイッチなどのリフレッシュメントが用意されている。大きなシルバーのプレートに盛られたサンドイッチは、すでに半分ほどがなくなっていた。朝一番の共通の話題は、昨晩のNCAAだ。アメリカが勝ち進んでいるWBCより、大学のバスケットボールが人々の興味をそそるというのが、いかにもアメリカらしい。
やがて、小柄な男性がブリーフィングルーム正面のスクリーン前に現われた。室内が静かになる。
「Welcome to amazing journey!」
ようこそ、この素晴らしい旅へ! 無重力体験のフライトへ──。
『ZER0−G』を運営するゼロ・グラビティ社チェアマンのピーター・ディアマンディス氏が、張りのある太い声で語りかける。30数名のゲストの期待に満ちた拍手が、ブリーフィングルームを包む。
「ここで皆さんが体験するのは、宇宙へのファーストステップです。安全で快適なフライトとなるように、これからお話する注意事項をぜひ守ってください」
Don‘t jump,Don’t swim,Don‘t kick──ディアマンディス氏は、飛ばない、泳がない、蹴らない、と繰り返した。
ブリーフィングルームに、かすかな笑いがこぼれる。「そんなことは分かっているよ」という意味の笑いが大半で、「無重力状態では、泳がないと動けないんじゃないの?」といった疑問も含まれていた。体験者たちがこの説明の意味を知るのは、もう少しあとのことになる。
未知の扉を開く儀式
30分ほどにまとめられたブリーフィング用のビデオが終わると、参加者は3つのグループに分けられた。フライトスーツと一緒に用意されたソックスのカラーが、グループ分けの目印だ。ここまでまた、各グループのコーチから説明を受ける。使い慣れたフレーズで、コーチは参加者の気持ちを高めていく。
「機内ではバラバラに動かず、グループごとに無重力を体験することになります。みんなで協力して、いいフライトにしましょう!」
いよいよフライトだ。友人と興奮気味に語り合う者がいれば、彼女をリラックスさせている男性もいる。稲波は引き締まった表情を浮かべている。緊張も含まれているようだ。
体験者はラスベガスのマッカラン国際空港へバスで向かうが、そのまえに金属探知機による身体検査を受けなければならない。全身をくまなくチェックされる検査は、国際線のフライトさながらだ。このときばかりは、スタッフにも体験者にも笑顔はない。真剣そのものだ。順番を待つ稲波は、少し不安そうな表情を浮かべていた。けんだま、シャボン玉、紙ヒコーキを積めたカバンを持ち込むのは、どうやら難しいようなのだ。がっしりとした体格の男性コーチが、稲波に説明している。
「ミネラルウォーターと粒チョコ(m&m)は、こちらで用意します。これで十分に楽しめますよ。写真も映像も専門のスタッフが撮影しますし、自分のデジカメで撮影したければ、スタッフに渡しておいて下さい」
しゃぼん玉セットは、急に落下した際に潰れてしまうかもしれない。先の尖ったモノは危険を伴う。けんだまとシャボン玉のセットは、この時点で落選となった。稲波は、特製紙ヒコーキを持ち込むことにした。
紙飛行機ファウスト号
『ZERO−G』は夢のような体験のできるアクティビティだが、ちょっとした気の緩みや判断のミスはケガや事故を招きかねない。厳重なまでのセキュリティチェックは、異世界へ向かう前の大切な儀式なのだろう。稲波と参加者たちは、こうして未知なる扉を開いたのだった。
ボーイング727−200を改造した『Gフォースワン』は、後部に通常の座席があり、前方が無重力を体験するフローティングエリアとなっている。飛行機は高度24000フィートから32000フィートの間で、上昇と下降を繰り返す。1回のフライトで12回から15回の放物線が描かれ、1回につき20秒から 30秒の無重力状態が訪れる。重力が戻ったら、フローティングエリアに仰向けになり、コーチの指示を待つ。この繰り返しで、合計でおよそ7分間の無重力状態を体感する──ブリーフィングでの説明を、稲波は反芻していた。ところが、シートベルトを締めて機体が上昇していくと、予期せぬ不安に襲われることになる。
「無重力を体験するまえにも、機体はアップダウンをするんです。何回も上がったり下がったりするので、気分が悪くなってしまったんです」
稲波だけではない。誰もが表情を歪めていた。ブリーフィング時に渡されたエチケット袋を取り出す者もいた。
「身体に悪いのは明らかですし、このままアップダウンが続いたら自分もヤバい、と直感的に思いました」
何人かの体験者は、激しい上下動に耐えきれずに嘔吐していた。エチケット袋を使っていても、吐瀉物の臭気は漏れる。機体に充満する。それがまた、稲波の気分を不快にさせた。
苦しい。ヤバい。このままだと──。
そこでようやく、コーチから声がかかった。
「さあ、無重力体験の始まりですよ」と。
「ホッとしました。そして、いざ無重力を体験できるとなったら、気持ちがすっきりしていったんです」
重力のレベルは、3分の1、6分の1、と段階的に無重力へ近づいていく。待ち望んだ無重力空間で、稲波の胸を駆け抜けたのは歓喜ではなかった。興奮でもなかった。
恐怖、だった。
「身体をコントロールするのが難しいんです。地面に接しているとき、触れているときはいいんですが、空中に放り出されると前後左右がまったくなくなってしまう。ですから、最初のうちは手を上に伸ばして、常に飛行機の機体と触れるようにしていました。そうしないと、身動きがとれなかったですね」
無重力空間では、自動車のハンドルに相当するものはない。ブレーキやアクセルの役割を果たすものもない。初めて体験する感覚に、稲波が戸惑いを覚えたのも無理はないだろう。
「浮いたと思ってふわふわしていると、気づいたらまた重力が加わってしまう。最初のうちは非常に恐かったですね」
フローティングエリアでは、グループごとに固まってコーチの指示を仰ぐ。それさえも、ひどく難しいものに感じられた。
「通常の航空機よりエンジン音が大きいので、声が聞こえないんです。顔を近づけないと会話は難しいですから、コーチの指示も届かない。コーチの話したことを近くにいる人間が復唱して、それでやっと全体に伝わるという感じでした」
それでも、恐怖心は次第に小さくなり、入れ替わるように好奇心が膨らんでくる。身体をコントロールできないまでも、稲波は無重力空間でのトライを重ねていく。
「グループのみんなが一列に並んで、無重力になった瞬間にスーパーマンのように飛び出す、ということもやりました。空を飛んでいるかと聞かれれば『そうです』と言えるかもしれませんが、自分の感覚では安定していないんですね。目ざす方向へ飛んでいるわけではないんです。重力がないから進んでいるだけで、景色だけが変わっていく。でも、僕はどこへ行くんだろうと」
グループ全員で腕立て伏せをやってみた。
重力がないから何度でもできると思ったが、これが難しかった。
「重力がないから簡単にできるのではなく、重力がないことで身体が浮いてしまう。ですから、うまくできないんですよ」
水を飲むのも苦労した。
「コーチから配られて、無重力空間に飛ばしてみましたが、なかなか難しかったですね。水をうまく飲む宇宙飛行士の映像がありますが、あのようにはいかないです。飛ばした水を飲もうとしても、身体がすぐにそちらへ行かないですから。パートナーに顔の近くへ水を飛ばしてもらって、それを飲むということなら比較的簡単でしょうが、ひとりでやる場合は口のなかへ放り込むようにしないと難しいと思います。m&mもそんな感じでしたね」
実際に体験したことによる発見はまだある。
「ロケットのなかを泳いで進んでいく映像を、観たことのある人は多いと思うんです。でも、僕の体験では、空気をかいたところで前には進みませんでした。そんなことをするなら、むしろ壁をつたっていったほうがいいということが分かりました。泳いではいけない、とブリーフィングでも言われましたし」
ブリーフィングで強調された禁止事項は、「泳がない、飛ばない、蹴らない」だった。残りの二つはどうなのだろう。
「そもそも無重力では、天井に近いところで浮いていることが多く、自分の周りにも人がいます。重なりあうような状態になることもありますから、そこでジャンプをしたら危ないですね。蹴るのも同じことだと思います。周りに人がいるなかで、キックをしたら危ないですから。それと……」
と言って、稲波はお腹のあたりをさすった。
痛みを思い出しているかのようだった。
「天井あたりにみんながいるときに、いきなり重力が加わるんですね。ズドン、とみんなが落ちる。そこで一度、僕よりずいぶん体重のありそうな人の下敷きになったんです。これはけっこうな衝撃がありました」
お腹をさすっていた右手が、次に首のあたりへのびた。ここにも痛みがあるようだ。
「重力が加わって落ちるときの姿勢によっては、首にグッと負担がかかります。それと、上昇するときは逆に重力が増えるので、身体にかかる負担は大きくなるんですよ」
紙ヒコーキは飛ばせたのだろうか。稲波の表情が、痛みを忘れたように明るくなった。
「飛ばしました! 想像していたよりも飛ぶので、ちょっとびっくりしました。地上では重力があるから落ちるわけで、無重力だとスーッと勢い良く飛んで行きました」
2010年宇宙のたびへ
1回30秒で合計7分ほどの無重力体験は、気がつけばあっという間に終わっていた。稲波は同じ言葉を繰り返し呟いていた。
「楽しかった。いやあ、楽しかった。ホントに楽しかったです。いままで体験したことのないことですから。30秒はとても短く感じました。本当にアッという間で。可能ならもっと体験したかった? うーん、そうですねえ……。気分が悪くなって脱落していく人が、どんどん増えていったんですよ。そういう人たちには、申し訳ない気もしましたよね。気持ちが悪いまま、ずっと座って待っているわけですから。だからまあ、ちょうどいいぐらいだったと思います」
フライトを終えた体験者が『ZER0−G』のオフィスへ戻ると、カウンターに全員分の記念写真が用意されていた。フライト前に撮影したものだ。終了証書もその場で授与される。機内で撮影された映像は、DVDに変換されて自宅へ届けられる。
それだけではない。使用したフライトスーツと記念のオリジナルTシャツ、手提げにもリュックにもなるオリジナルバックもプレゼントされた。
着替えを済ませた稲波は、ピーター・ディアマンディス氏のもとへ挨拶に向かった。『ZER0−G』のチェアマンである彼は、同時に、世界的な宇宙開拓者のひとりでもある。ヴァージンの宇宙旅行の『ファウンダー』である稲波とディアマンディス氏は、すでに何度か顔を合わせたことのある間柄だったのだ。
すべてのプログラムを終えた稲波は、2時間のフライトをゆっくりと振り返る。表情には充実感がにじんでいた。
「機体に寝た姿勢から無重力体験が始まるわけなんですが、気がついたら天井が目の前にある。起き上がるという感覚ではなくて、まったく別の感覚。ジェットコースターのように、下へ落ちていくのとも違う。気づいたら空中に放り出されているような。でも、それは決して乱暴なわけじゃない。これは地上では決して味わえない、まったく新しい感覚でしたね。宇宙にいったらこういう感覚があるのかと思うと、宇宙へ行きたい気持ちがさらに強くなりましたし、さらに楽しみになってきました。宇宙では一回30秒という区切りあるわけじゃないですし。これは非常に楽しみですね!」
鮮烈な体験は身体に刻み込まれ、宇宙へのイメージをかきたてる新たな素材となった。決して色褪せることのないラスベガスでの記憶とともに、稲波は2010年への準備を着々と進めている。
Text/ Photos:Kei Totsuka
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