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青の世界で
ザトウクジラのラブソングを聞く

Faustを焚き付けた一言 

Faustメンバーのひとり、木村英智は、ある男の言葉が妙に引っかかっていた。何気ないひと言だったが、胸のあたりに熱くたぎるものを感じたのだ。

「水深100メートルまで潜ったことありますか?」

海に携わるものにとって、その数字の意味は十分理解できる。かつて、人類史上初めて水深100メートルの世界に到達したのは、フランス人フリーダイバーのジャック・マイヨールだ。映画『グランブルー』では、彼の記録への挑戦と海にしか生きられない男の生き様が美しく描かれていた。木村もグランブルーにあこがれた世代である。“水深100メートル”という言葉の響きだけで、紺碧の海中シーンと息詰まる緊張の数分間がよみがえってくる。

木村は、海と深い関わりを持つ男であった。
六本木ヒルズ展望台の東京シティビューで、2007年夏に初めて開催された『スカイアクアリウム』。水族館とは明らかに違う“海のアート”が、都心の高層階に登場し話題を呼んだ。その好評ぶりから2008年夏にも開催され、今や六本木の夏の風物詩となりつつある(今夏も7月中旬から開催)。そのスカイアクアリウムを仕掛けたのが木村だ。アクアリウム業界で知らぬものはいない。

彼はこれまで、世界の様々な海に潜ってきた。しかし、そのほとんどはビジネス。ウェットスーツにボロボロのボンベを背負い、地元の漁師たちと珍しい魚を探しに何度も何度も潜ってきた。水深45メートルでエアがなくなりそうになったことさえある。思い返せば、危険な目にあった出来事ばかり。木村は苦笑いをしながら話す。
「完全な趣味や遊びで潜るというのは、僕の場合は成立しないですよね。というのも、海に潜るということになれば、せっかくだから……と仕事のことを考えてしまう。根っからの商売人なんで(笑)」
ファンダイブの経験は皆無に等しく、ましてやフリーダイビングと呼ばれる“素もぐり”の経験はない。「自分の肉体にそこまでの自信はない」からと遠慮がちに話す木村は、素もぐりなど考えたこともなかった。
ある男の一言を聞くまでは……。

世界でもたった7人だけ

篠宮龍三の言葉は刺激的だった。
「5メートルも潜れば、とても静かな世界です。この時期なら、ザトウクジラの求愛の声を聞くことも可能ですよ」
沖縄在住のプロフリーダイバー篠宮。日本人で初めて“自力潜行”で水深100メートルに辿り着いた男の言葉である。
木村の好奇心、探究心、冒険心を掻き立てるには十分だった。1月下旬の週末、羽田発のJAL最終便で木村は沖縄へと向かった。3時間弱のフライトで、何度か激しい揺れに見舞われた。ガイドブックを手にした女性の小さな悲鳴が聞こえる。1年前に沖縄を訪れたときには感じなかった胸騒ぎを、ひそかに感じていた。ひと眠りしようとしていた木村は、まどろむことすら難しかった。

沖縄らしからぬ寒風

フリーダイブ当日。ホテルのエントラスを出た木村は、全身を覆う冷たい風を感じた。軽めの食事をとって、午前9時を回った頃。車で迎えに来てくれた篠宮が風にあおられた髪の毛をかきあげながら言う。
「天気があまり良くないので、残念ながら予定していたポイントに行くことができません。この天気でも潜れるポイントは、崎本部にあるゴリラチョップ(写真を参照)になってしまいます……」
申し訳なさそうに話す篠宮に、木村が答える。14度という気温は、東京のこの時期に比べれば格段に暖かい。しかし、暑いかもと思ってきた沖縄では、いっそう肌寒く感じてしまう。沖縄空港で聞いた話を思い出す。
「この冬一番の寒さだよ。おとといまでは22度あったのに……」
篠宮が同じことを言った。「この冬イチバンの寒さです。風邪を引かないようにしましょう」
それでも、木村のテンションは上々だった。ある程度、予想していたようだ。
「前回沖縄に来たときも、こんな感じの天気でした。初めてダイビングをやったときも、ものすごく寒かったし。それに、昨日から比べれば、まだ少しはましかな。大丈夫ですよ」
篠宮とのフリーダイビングに備えて、木村とFaustA.G.のスタッフは、前日の午後に沖縄の海を経験していた。篠宮が紹介してくれたダイビングショップのスタッフとともに向かったのが、まさにゴリラチョップというダイビングポイントだった。木村は、寒さに震えながら、沖縄での初めてのファンダイビングを楽しんだのだった。

心を鎮める呼吸法

ゴリラチョップへ到着すると、雲間から日差しが注いできた。悪くない。いい感じだ。木村のモチベーションが高まる。
ウェットスーツに着替えると、篠宮のひと言で砂浜へ向かう。
「さあ、それでは行きましょうか」
海を背に立った篠宮の向かいに、木村とスタッフは座った。インストラクターの顔になった篠宮の言葉を、木村も真剣な表情で聞き入る。

「フリーダイビングは、メンタルがとても大事なスポーツです。心の動揺や焦りが、パフォーマンスの低下につながってしまいます。ドキドキすると、海の中では息が続きません。潜る前に呼吸法を知っておくことで、心と身体を落ち着けて、いいパフォーマンスをすることができます」
そう言って篠宮は、具体的な呼吸法を紹介した。
砂浜にあぐらをかき、背筋をピンと伸ばす。身体の一部に力が集中しないように、お腹を使ってゆっくりと呼吸をする。鼻から息を吸い、ゆっくりと口から吐き出す。4秒吸ったら8秒で吐き出すのが理想的なリズムだ。
同じリズムで呼吸を続けていくと、やがて、自分の呼吸音と波の音しか聞こえなくなる。雑念が振り払われ、全身がリラックスしていく。

たっぷり20分は呼吸法を学んだだろうか。「はい、OKです」と、篠宮が沈黙を破った。木村は「ふう……」と小さな吐息を漏らした。視線には緊張感が宿っているが、全身からはリラックスした雰囲気がうかがえる。
無駄な力が抜けたところで、ひとつ目のトライに挑むこととなった。水中で静止し、閉塞していられる時間を競う『スタティック』という競技だ。
砂浜からすぐ近くでのトライである。海底に足は着く。恐怖心はない。そもそも、陸上やプールであれば、2分くらいは息を止めていられるだろうな、と木村は考えていた。

ところが、競技という枠組みのなかで取り組むと、どうしても焦りが生じてしまう。最初の試技は1分ほどで終わってしまった。
何がいけないのか。自分の身体に問いかけてみる。「心の動揺と焦りがパフォーマンスの低下につながります」という、篠宮の言葉を思い出す。先ほどの呼吸法を頭のなかで反芻し、自分の呼吸音と波の音に意識を傾ける。やがて木村は、リラックスした“無の境地”に近づいていった。9分4秒という世界記録には遠く及ばないが、自分なりのベストを尽くすことができた。

初めてのフリーダイブ

春を思わせる日差しが注いできたところで、いよいよフリーダイビングに挑戦する。シュノーケルとフィンを頼りに深さ4メートルのポイントへ向かい、篠宮が海底にガイドロープを固定した。ガイドロープを手繰って海底まで潜行する。そのときに“耳抜き”をしっかりとやること。それが木村に課せられた最初のミッションだ。
水深4メートルという数字に、困難なイメージは希薄かもしれない。
しかし、ガイドロープを手繰っていくフリーダイビングは、垂直に降下していかなければならない。スキューバダイビングのように足を下に向けて、ゆっくりと自分のペースで降下していくわけではない。鼓膜の損傷などのスクイーズのリスクが高いのである。

耳抜きを行ないながら潜行していかなければならず、これがビギナーには厄介なのだ。ダイビング初心者のFaustA.G.スタッフのひとりは、2メートルも潜らないうちに耳抜きがうまくいかなくなり、まだ呼吸は苦しくないのに引き返すことになってしまった。
木村は実にスムーズだった。耳抜きをするたびに動きを止めるダイバーもいるなかで、彼はほぼノンストップで潜行し、鮮やかに浮上してきたのである。海面に到達した木村は、篠宮とハイタッチをして成功を確認した。
「ダイビングをやっているときは、もっと深くまで潜るでしょう。だから、無意識のうちに耳抜きをする感覚が身についているのかもしれないね」

プレッシャーとの戦い

4メートルのポイントで身体を慣らしたあと、昼食を挟んで7メートルの世界へ挑戦することになった。木村なら十分に対応可能だ、と篠宮も太鼓判を押す。
「木村さんなら、すぐにでも10メートルくらいまで潜れますよ。順を追ってやっていくので、今日は7メートルにしますけどね」
先ほどよりもさらに沖合にポイントをずらし、篠宮がガイドロープを固定する。海底へ潜っていく篠宮の動きはしやかなで淀みがないが、深さが増しているのは明らかだった。午前中に比べると天候が悪く、海中に差す陽光が薄れているように感じる。4メートルよりも、濃い青色がそこにはあった。
もちろん、条件が変わっても、やることは変わらない。
変化があるとすれば、ダイバーたちのメンタリティーだ。ビーチでトレーニングをしたとおりに呼吸のペースを保ち、精神的な落ち着きを維持できれば、十分にクリアできる深さである。木村にはその資質がある。
「自分のペースで呼吸を整えて、自分のタイミングで初めてください。慌てずに、落ち着いて」
さきほどまでと同じセリフで、篠宮が木村を送り出す。目を閉じた木村は、呼吸のリズムを整え、全身から無駄な力を排除していく。自分の身体が水に溶け込んでいくような感触を得たところで、木村の身体が水面から消えた。
スルー、スルー、スルー、スルー……ガイドロープをリズムよく、なおかつ力強く引き寄せながら、木村は降下していく。今回もスムーズだ。流れるような動きで、7メートルという深さをクリアした。
ザバッ!
海面に浮上すると、木村は大きく息を吸い込んだ。
「深いよ、深いっ! 4メートルとは違う」
4メートルから7メートルへ。3メートルの違いは何なのか。
「静かです。暗いしね。それに、頭から真っ直ぐに潜行していくことって、普通はないでしょう」
 

そうなのだ。斜めに潜行することで水圧に少しずつ身体を慣らすことのできるスキューバダイビングと異なり、フリーダイビングは一気に降下していく。両者の違いは4メートルの世界で体験済みだったが、7メートルの深さでは身体にかかる負荷がさらに増していたのだ。
ここで篠宮から、新たな課題が突きつけられた。
「それでは、ロープをつたわらないで潜ってみましょう」
『コンスタントウィズフィン』と呼ばれる競技である。フィンをつけた脚力だけを頼りに、ガイドロープと並行に潜行していく。木村に課せられたハードルは、さらに高くなった。
 

襲い来る水圧

実は午後のトライから、木村は右耳に違和感を覚えていた。うまく耳抜きができなくなっていたのである。
木村の脳裏を、不安要素が駆けめぐる。
沖縄入りする数日前に、インフルエンザを患っていた。沖縄入り後も、十分な睡眠を取れていなかった。こうした悪条件のなかで、人生初のフリーダイビングにトライしていたのである。午後になって急激に温度が下がってきたことも、彼の身体に微妙なズレを生じさせていたのもしれない。7メートルの深さに対応しきれないFaustA.G.スタッフがリタイアしたため、ほとんど休みを置かずに試技を繰り返していたことで、疲労も確実に蓄積していた。

水圧の変化に抗ってきた肉体が、ついに悲鳴をあげた。
木村の鼻から鮮血が飛び散った。耳抜きがうまくいかなかったことで、鼻血を出してしまったのだ。篠宮やFaustA.G.スタッフに不安がひろがる。
もはや、これ以上の続行は不可能か。
木村は冷静に自分の肉体に問いかける。
いけるか。もうやめるか。
彼の下した決断は「続行」だった。限界へ挑戦するFaustのスピリッツが、あと少し、もう少しだけ海と一体化することを彼に選ばせたのだった。

ザトウクジラのラブソング

 水深7メートルの世界を味わっている木村に、さらなるハプニングが起きる。何かが聞こえたような気がして、周囲を見渡す木村。
「オーイ、オーイ」
誰かが俺を呼んでるのか?
亡霊の声でも聞いてしまったのか。
「オーイ、オーイ」
いや、ここは海底だ。誰かの掛け声がこれほど鮮明に聞こえるはずはない。 

「あ、クジラの鳴き声が聞こえますよ」
篠宮が周囲に知らせる。木村の不安が喜びに変わる。

「オーイ、オーイ」
これこそが求愛の声、ザトウクジラのラブソング。
海面に浮上して木村が見渡すと、篠宮もFaustA.G.スタッフも興奮気味で語っている。「今のですよね。オーイ、オーイって」。個体によって、その音のトーンは違い、音の大きさは距離によって変わる。沖を見てもクジラの姿を目視できないのに、彼らの声が聞こえる。海中だからこそ聞こえる、とっておきのラブソングなのだ。
「聞こえちゃったね! ホントに」
目を見開きながら喜ぶ木村。鼻出血までしてトライした男に、神様は素敵なプレゼントを用意してくれた。

アクアラングを背負わずに感じた静寂の世界には、かつて感じたことのない生物の営みがあった。機材をパートナーに海と触れ合ってきたが、自分の身体ひとつで海と向き合うのも悪くない。これほど爽快な気分に浸れるのは、いったいいつ以来だろう。波間に漂う絶え間ない水しぶきのように、様々な感情が溢れ出てきた。
「青い闇、グランブルーと呼ばれるものを、ほんの少しだけでも見ることができたような気がするんです。地球のなかの宇宙と呼ばれる世界をね」
次はもっとコンディションの良い海で、フリーダイビングに挑戦したい。水深100メートルの世界を肌で感じられる日に想いを馳せて。グランブルーへ――。 

  • ◎グランブルーの扉を開けたFaust体験インタビュー体験者インタビュー~メフィストの部屋へ~
  • ◎「自分も素もぐりで水深100mの世界に挑戦したい!」 という冒険者へこの冒険へ行きたい方へ~Naviへ~

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