魚たちが物語る
世界は海でつながっている!──後編
政府との交渉、首都マーレへ
モルディブの首都マーレ。北マーレ環礁の最南端に位置し、わずか1時間ほどでぐるりと1周できてしまう世界で最も小さな都市。それでも、モルディブの全人口の約3分の1にあたる10万人以上が住んでおり、世界一の過密都市とも言われている。
島々で構成されるモルディブでは、首都マーレへ行くにも、点在する島々に行くにも、スピードボートあるいは伝統的なドーニという小舟を使うのが一般的だ。
ちなみに多くは無人島だが、それ以外の各島にはそれぞれの役割が与えられている。モルディブという国を支えるリゾートのある島、世界とモルディブをつなぐ 空港の島、魚を獲って生計を立てている漁師たちの島、各島で出たゴミを集約して処理するゴミの島。そして、地元の人々の多くが住む島、首都マーレ。チェッ クダイブを無事に終えた木村が向かう先だ。政府の人間が、日本から来たひとりのファウストを待ち構えている。
バンドス島の桟橋には、一艇のドーニが係留されていた。雨はあがり、わずかに晴れ間が覗き始めている。しかし、船体が激しく上下しているのを遠くからでも 目視できるほど、相変わらず波はまだ高い。木村は少しうんざりした顔を見せながらも、まだ見ぬ現地の協力者との出会いに期待し、ドーニに乗り込む足取りは 軽かった。「オシャレハナダイの情報が欲しい」。ただ一心に。
頼もしき助っ人たち
マーレの地に降り立った木村の目に、最初に飛び込んできたのは、次々と走り抜けていくバイクの数々。波の音と鳥の声がBGMのバンドス島とは打って変わり、突然の喧騒が木村の耳をつんざいた。リゾート地モルディブとは大きく違う、もうひとつのモルディブの素顔がここにはあった。
首都であり、100%イスラム教徒の島。いたるところにモスクがあり、街並みは塀や壁で仕切られている。囲われた家々に目を向けると、モザイク模様の壁や色とりどりに塗られた窓枠がとても印象的だ。待ち行く人々は、開放的なリゾートと異なり、極端に露出した服装は見られない。もちろん、アルコール類は一切禁止である。
メインストリートを行き交う騒々しいバイクたちに目を奪われていた木村に、一人の男が英語で声をかけた。「ミスター木村か?」。船のコーディネーターをしているというイヴァ氏である。その横には、網元だというイッセイ氏がにこやかに立っていた。モルディブでの協力を得るために日本から事前にコンタクトをとっていた二人だ。「マーレへようこそ」と、木村を握手で迎え入れた。気持ちの良い二人の笑顔に木村の顔も自然と緩む。
「政府で働いているオレたちの友人が待つ建物は、すぐ近くだ」とイヴァ氏。一行は、ドーニや漁船が入れ替わり立ち替わり入出港を繰り返す港を後にし、目的地へと急いだ。歩道は近くの市場へと向かう人々と、船上で生活をしている人々で活気づいている。バンドスでは味わわなかった人波を縫い、程なく辿り着いた先はひとつの低いビル。エレベーターに乗り込み、3階のオフィスに招き入れられた。
待っていたのは、モルディブ政府の観光担当アイビー氏。あいさつを済ますと、早速、木村は“One Ocean”プロジェクトの概要を説明し始める。
3人とも、深くうなずきながら耳を傾ける。木村の想いは、しっかりと届いているようだ。理解してくれたことを感じ取った木村は、おもむろに彼らの目の前に魚の図鑑を突き出し、オシャレハナダイについて尋ねる。インド洋固有種が記載されている図鑑、日本の熱帯魚図鑑の双方を見比べながら、4人の議論は白熱していく。
オシャレハナダイでなくとも、魅力的な生物が多く生息するモルディブ。たとえ同じ種類の魚であっても、インド洋のものは日本(太平洋)のそれよりも色が強い(濃い)ものが多いと木村は言う。理由ははっきりと解明されてはいないが、海水の状況やプランクトンなど様々な要因がそうさせるのだろう。なかでも、色鮮やかだと言われるているオシャレハナダイ。実際にモルディブの海で自分の目で確かめたい。そして六本木を訪れる人々に知ってもらいたい! その想いが木村をさらに駆り立て、交渉にもますます熱がこもっていく。
現在の日本のアクアリウム業界では、インド洋の魚のほとんどがスリランカ経由で輸入されている。かつて、フロリダに4年間通い詰め、日本での独占販売権を締結した木村である。粘り強さは筋金入りだ。もしもオシャレハナダイが見つかったなら、7月に開催される「スカイアクアリウムIII」、9月に開催予定の「東京アクアリオ2009」で展示したい。その道筋だけはつけておきたい。
しかし、モルディブの海を熟知している彼らでさえ、オシャレハナダイは未だにはっきりと確認できていないのだと知らされている。ただ、世界屈指の魚影の濃さで知られる海だ。あきらめるのは早い。そして木村にとっては、あきらめるどころか確信めいたものがある。木村の説得は、存在は明らかだと言わんばかりに熱を持つ。
彼らはすっかり木村の言葉にほだされてしまったのか、オシャレハナダイのためにできるかぎりのことはする、協力は惜しまないと約束を交わした。
One Oceanとオシャレハナダイ……その第一歩を踏み出せた。
モルディブの海を深く、深く
マーレでの交渉の翌朝。初めて南国らしい青空を見ることができた。自称、“晴れ男”の木村。面目躍如である。
海の表情も一変していた。美しい砂浜に打ち寄せる波は、静かにきらめいている。木村が朝食を済ませた頃には、鋭い日差しを予感させる光が、昨日より明らかに少なくなった雲の間から差し込み始めていた。
いよいよオシャレハナダイ探しが始まる。
ダイビング用のドーニに乗り込み、船上でダイブバンドスの現地ダイブガイドのブリーフィングに耳を傾ける。当然のことながら彼にも、今回の企画の主旨は伝わっている。淡々と説明を始めた彼の表情からは読み取りづらいのだが、オシャレハナダイ探しに意欲的らしい。ここにもまた心強い味方がいた。
地形、潮の流れ、コース、深度など入念なブリーフィングを行ったあと、撮影スタッフや木村のアシスタントが次々とタンクを背負いエントリーしていく。
そして、真打ち登場、木村の出番だ。ジャイアントストライドエントリーでダイナミックにいざモルディブの海へ。通常であれば、ガイドの指示に従いながらバディ単位で潜るのがモルディブのルール。しかし、我々は政府からの許可を得た撮影隊。ひとつのチームとして潜ることが許された。オシャレハナダイを探すための特別ダイビングチームだ。One Oceanダイブチームとでも名付けようか。マーレにいる彼らに感謝である。
水面で呼吸を整え、カメラマンの合図で潜行開始——。
海中には、昨日とまったくの別世界が待っていた。晴れ上がった空から降り注ぐ太陽の光は、海面から海中に深く突きささり、曇り空のダイブでは見られなかった真っ青な世界を浮かび上がらせていた。鮮やかな魚は、よりいっそう濃く鮮明に。きらびやかな魚は、よりいっそうまぶしくきらめいている。しばし、誰もが静かな海中の神秘に心を奪われた。
カンカン。
カメラマンがタンクを叩く音に、ハッと我を取り戻し、深く深く潜り始めるOne Oceanダイブチーム。
片側に岩壁を見ながらのドロップオフ。斜面のあちこちに、ケーブや、オーバーハングがあり、ダイナミックな地形だ。
チェックダイブでもそうだったが、一度水中に潜るとまさに水を得た魚の木村。あちこちのくぼみや岩影、洞窟を、経験からくる勘を頼りに珍しい魚を求めて探しまわる。そして真骨頂は、何度も頭と足を逆さまにした状態(陸でいう逆立ち)になり、岩陰にいる魚に、自然な呼吸をしながらゆっくりと上から近付いていくテクニック。あまりに長い時間、何度も水中でその姿勢になるので、ベテランのカメラマンやアシスタントも驚きで目を丸くしていた。
後日、何故そうしていられるのかを尋ねると「だって魚が逃げてしまうから」と、できて当たり前のように答えている。なるほど、確かに前方から近づけば、それがゆっくりでも魚の視界に入ってしまう。水の流れが変わることで警戒され、逃げてしまうかもしれない。長年、国内外のフィッシャーマンたちとの過酷なダイブを繰り返し、身体で習得している木村には普通のことなのだ。
それにしても、極彩色の豊かな海である。何気ない岩肌の苔類までもが、光をあてると鮮やかな色合いを浮き立たせる。雨季による昨日までの荒れた海の影響で、乾季のモルディブほど透明度は良くないと言われたが、それでも格別の海であることには違いない。花吹雪のように舞い泳ぐハタタテダイやハナゴイ、愛らしいクロユリハゼ、タテジマキンチャクダイ、スカシテンジクダイの群れが次々と目の前に現れる。
もう少し深みへ行けばオシャレハナダイに出会えるかもしれない。誰もがそう思った。期待に胸を膨らませ、“これから”という時……。時間切れである。タンクの残圧計は、浮上することを促していた。次のダイブに想いを託し、一度、十分な休息とタンクの交換を行いに船へと引き返す。まだ始まったばかりだ。
逸る気持ち、焦る心
気がつけば最終日、残り3本のダイブ。昨日の2本目は、収穫なく再びタイムリミットを迎えてしまった。木村も撮影隊も、この短い強行スケジュールを悔やみつつ、最終日に奇跡が起こることを心から願っていた。
快晴。雨期とは思えないほど天気は回復し、ポストカードで何度も見た、コントラストの強すぎる嘘のようなインド洋の風景が目の前に広がっている。
海もおだやかだ。最終日は、3カ所のポイントに潜る。天気も味方し、準備万端整った。あとはオシャレハナダイを見つけるのみ。
1本目は、バンドス島周辺ではイチバンの人気ポイントである「Maagiri Rock」へ。エントリーするやいなやヨスジフエダイの群れに出迎えられる。チームは目の覚めるような鮮やかな黄色に包まれ、早くも幻想の世界へ。あたりを見回すと、真下にはマダラトビエイがじっと体を潜めている。砂地で目を凝らすと、あちこちにニョロっと顔が出ている。まるでムーミン谷のニョロニョロのようなガーデンイールだ。鮮やかなソフトコーラルに紛れて浮遊しているネッタイミノカサゴ。赤い地色に青の水玉模様が美しいユカタハタ。インド洋固有種のインディアンバンナーとパウダーブルーサージョンフイッシュもいる。あたかも蒼い絨毯に宝石箱をひっくり返したかのようだ。
カンカンカンカン。
またもや魅惑の世界に酔っているチームを、再びカメラマンがタンクを鳴らして現実世界へと引き戻す。
必死にオシャレハナダイを探す木村とチーム。そんな我々に興味を示したのか、メガネモチノウオ(通称ナポレオンフィッシュ)が近寄ってきた。その背後にはキンギョハナダイの乱舞が見える。このリーフのどこにオシャレハナダイがいてもまったく不思議はない。
木村がダイバーコンピューターに目を落とすと、水深は29mと表示されている。本来、水深の浅いポイントほど魚の種類も豊富で色彩も豊かだといわれてい る。深度が増すにつれ、徐々に色のない青い世界へと変化していくのが普通だ。ここは違う。30m付近だというのに、次から次へと登場する色の濃い魚群に圧 倒されるばかりである。
「そろそろ本命がいてもおかしくない!」というところで、またもやタイムアウト。ダイビングは「もっと見たい、もっと長く」という欲望をどこまで押し殺せ るか、冷静で客観的な判断ができるか、まさに自分との戦いでもある。タンクから得られる命の源に惑わされてはいけない。ひとたび判断を誤れば死に繋がる、 そのことを忘れてはいけない。焦る心、逸る気を静めつつ、浮上である。
神様からのご褒美
ボートの上では、次のダイビングに備えて1時間ほど水面休息をとる。初日のチェックダイブから数えて、すでに4本。楽しむだけのファンダイブではない。大きな使命を帯びた、冒険、挑戦のダイブ。だいぶ疲労も溜まってきているはずだ。
ドーニに乗り合わせているモルディブ人のスタッフが全員にオレンジを配ってくれた。ほどよく疲れた体にビタミンCは最高のごちそう。
空からは心地よい太陽光がモルディブの美しい海と、冒険ダイバーたちに降り注いでいる。それにしても天気がいいという事は、こうも気分が違うものか。眼前 に広がる圧倒的な大自然と向き合うと、人間の無力さを再認識するとともに、不思議と便利なものなど何もなかった太古の時代、人々が感じていたであろう素朴 な感情が沸き上がってくるようだ。明日は帰国。日本に戻ればまた、戦場の日々。束の間の休息は、原点回帰を促す。新たなイメージがきっと湧くだろう。
十分にカラダを休めたOne Oceanダイブチームは、気分を変えて大物マンタ(名称:オニイトマキエイ)の出るポイントへと移動する。
エントリー後まっすぐに、海底に大きな珊瑚の根のある場所へ移動。そこにはマンタお気に入りのポイントがあるとガイドが教えてくれた。マンタがホバーリン グをしていると小魚が寄ってきてクリーニングをしてくれるのだ。その瞬間が見られるのがココだ。チームは、目的の魚を探しつつ、マンタと出会えるちょっと した“ご褒美”を待つ。
そのとき、木村の前を何食わぬ顔をしたカメがスーッと横切る。好奇心旺盛なカメは、カメラマンが持つムービーに気が付き、レンズめがけて近づいてくる。
コツコツ。
はっきりと音が入るほどレンズを小突き、また木村の方へと泳いでいく。木村がカメとのランデブーを楽しんでいる光景に気をとられていると……。突如、チームの背後から2枚のマンタが勢いよく現われ、頭上すれすれを飛行するかの如く飛び越して行く!
モルディブの魚はどれも人間を恐れていないのか? かなりの距離まで近づくことができる。黙々とオシャレハナダイを求めて泳ぎ回っている我々は、マンタにとっては他の魚類とさして変わらないのか、何度か出現し、かなり近くを悠然と飛行していった。
One Oceanダイバーチームは、多くのダイバーたちが遭遇を望む3種に入る、ナポレオンフィッシュ、マンタに、苦もなく出会えた。やはりオシャレハナダイだけは別格なのか。待ち人来ず。木村のダイブはラスト1本となった。
奇跡を待つ男たち
大物マンタと遭遇したチームは、にわかに活気づく。次はジンベエザメか!
水中で最も大きな魚類ジンベエザメ。モルディブでは、乾季に入ると週に2、3度出会えるという。ジンベザメの餌はプランクトン。体の大きさから考えて大量 の餌が必要だが、モルディブの海は十分すぎる餌を蓄えている。栄養豊富な恵みの海である。この素晴らしい海を次の世代に残さなければ。自然とそんな気にさせられる。
ジンベイよりもオシャレ。いよいよラストダイブを迎えてしまった。木村の前に果たして本命は現れてくれるのか。木村は、次のポイントを、これまで潜ったポイントの中で、いちばん居そうだった地形の場所を指定した。
気合いと想いを込めたモルディブ最後のエントリー。潜行を始めると、一面の枝珊瑚、色鮮やかなソフトコーラル。そして水面近くにはイワシの稚魚がメタリッ クボディに光を浴びてきらきらと輝いている。珊瑚のまわりにはチョウチョウウオの群れや、花びらを散らしたようなキンギョハナダイが泳ぎ回る。隠れ根には ホウセキキントキが潜み、水底の砂地にはお馴染みのガーデンイールの森があり、ドラキュラシュリンプゴビー、オーロラシュリンプゴビーが穴の中に引っ込ん ではまた顔を出す。
ラストポイントに相応しい、なんという豊かな海か。例えオシャレハナダイに出会えなくとも、十分な収穫である。モルディブのカラフルで濃密なその海中劇場は、まさに幼い頃、思い描いた竜宮城そのものだた。
ふと、木村は振り返る。海水魚に興味を持つきっかけは、かつて図鑑で見た“ハナヒゲウツボ”との出会いだった。真っ青な体にひげのようにのびた鼻面。その 鼻面から背までつながった黄色のひれ。今までに見た事が無い、そのあまりに美しい姿態に、木村は「絶対に飼ってみたい!」という思いを抱いた。もともと昆 虫博士だった木村少年が、爬虫類の飼育を経て、海水魚に行き着くのは自然の流れとも言えた。
深い興味を持った木村少年は、徹底的に探求したいと思い15年もの間、海水アクアリウムの進化に貢献してきた。そして現在は、アクアリウムクリエイターとして、ライブコーラルをアクアリウムの世界に普及させた第一人者と成りえたのだ。
その木村に、奇跡は起きないのか?
モルディブでの最後のダイビングはまもなく幕が下りてしまう。一縷の望みにかけて木村はラストの潜りをみせる。
大きな岩場で優雅に漂うのは、インド洋固有種のコラーレバタフライフィッシュ。岩陰にまわると、そこにはインド洋固有種のクマノミの仲間、モルディブアネモネフィッシュが巨大なセンジュイソギンチャクと共生している。その光景はあたかも御殿のようでもある。
美しいラストを飾るのに相応しいエンディング。しかし、冒険の最後を飾るには残念なダイビング。その日One Oceanの証明、オシャレハナダイに木村が出会うことはなかった。
その後、木村は再びモルディブの海で潜りにくることを政府に約束した。「スカイアクアリウムIII」を成功させ、「東京アクアリオ2009」をOne Oceanの理念のもとで開催すること。この構想にぶれは無い。9月11日〜13日にはそのひとつの答えが出ているはずだ。
幻の魚を追い求めて、One Oceanを証明するため、木村は近い将来、必ずモルディブの海へと帰ってくる。オシャレハナダイを探しに——。
モルディブの海を堪能するなら──
ヴィラホテル「ワン&オンリー ・リーティラ」で
Text:Masako Matsuoka
Photo:Masaaki Harada/Masako Matsuoka
2009/07/09