Vol.013

野球部と飲食業が生み出す“人財”力

新田治郎

株式会社ジェイグループホールディングス 代表取締役

熱い。とにかく熱い。新田が発する言葉は、どれもとびきりの熱を帯びている。
それがまた、心地好い響きを持って迫ってくるのだ。語り口はゆったりとしているが、芯に固いものが通っている。
類稀な先見性を持つ敏腕経営者にして、新進気鋭の社会人野球チームのオーナーでもある彼の人生は、どの角度から見つめても、どの瞬間を切り取っても、「挑戦」という二文字があてはまる。

バブル絶頂のディスコ業界からの転身

新田が率いる株式会社ジェイグループホールディングスは、名古屋を中心に「てしごと家」「芋蔵」「ほっこり」などの居酒屋やレストラン、カフェなど多業態の飲食事業を展開している。また、ブライダル事業、不動産事業、広告制作事業、仕入れ・卸事業、人材関連事業などにも取り組む。名古屋市内を少しでも歩けば、新田と彼のスタッフが手がけたビジネスに触れることができる。それも、至るところで。
グループの背骨となる飲食業を展開するきっかけは、1997年を出発点とする。
日本が空前のバブル景気に沸いた80年代に、「マハラジャ」や「キング&クイーン」などの高級ディスコを展開したNOVA21グループの一員として、若き新田は辣腕をふるっていた。業績不振の店舗を次々と立て直した彼は、24歳にしてグループ史上最短かつ最年少の社長となる。「新田治郎」の名前は、全国のディスコ業界を駆け抜けていった。
社会的現象ともなったディスコブームだが、バブル崩壊とともに人気が下降線を辿っていく。そうした状況下においても、新田が統括する東海地区の店舗は際立った売り上げを誇っていた。
社会的現象ともなったディスコブームだが、バブル崩壊とともに人気は下降線を辿っていった。そうした状況下においても、新田が統括する東海地区の店舗は際立った売り上げを誇っていた。だが、経営側は96年12月31日で閉店することを決定する。
“ディスコ界の寵児”とも“シンデレラボーイ”とも言われた新田のもとには、当然ながら好条件のオファーが届いた。彼自身が望めば、東京でも、名古屋でも、好きな場所で好きな店舗を構えることができただろう。
だが、新田はディスコ業界から離れることを決意する。
「自分のなかでディスコは、20代までと決めていたんです。いつかは違う仕事をしようと考えていて、年齢的にもちょうど30歳でしたので、キリが良かった」

ひとを思い、町を思う、
根底に流れる新田の人間力

理由はもうひとつあった。スタッフの生活を支えていかなければという使命感が、彼を突き動かしていた。
「会社ではなく、僕個人に付いてきてくれていたスタッフが、30人ぐらいいたんですね。彼らを食べさせていかなきゃいけない。じゃあ、何をやるか。サービスと接客のノウハウはディスコで培ってきているから、飲食店がいいんじゃないか? 1店舗で少なくとも10人ぐらいは雇えるはずだ。よし、できるだけ早くオープンしよう、と」





「芋蔵」。
インタビューは「芋蔵 青山店」にて行った。

96年大晦日の名古屋キング&クイーン解散から2か月後、新田はジェイプロジェクトを設立する。その1か月後には早くも、1号店のオープンにこぎつけた。
さらに1週間後には、2号店を開店させる。
新田の驚くべき攻勢に、周囲は驚きを隠さなかった。 「周りの人たちには、『よくお金を集めたね』とか『よく銀行が貸してくれたね』と聞かれましたけど、実はどこからも借りていないし、そもそも借りる知恵もなかった。店舗物件の大家さんも酒屋さんも知り合いだったので、『治郎ちゃんなら出世払いでいいよ』と言ってくれたんです。名古屋の人たちみんなが、本当に応援をしてくれた。これはありがたかったですね」
担保さえ預からない無償の融資や提供は、貸し手にとってリスクが大きい。ならばなぜ、新田に手を差し伸べる人が列をなしたのか。
彼の「人間力」に答えがある。
かつて長野のディスコを立て直すにあたって、新田はスタッフとともに店舗の周辺を掃除した。雪深い冬の朝も欠かさずに、清掃活動に励んだ。
街全体と共存し、ともに繁栄していきたいと願う精神は、その後も彼の行動原理の中核を成していく。「ちょっと生意気なところはあるけれど、これからの名古屋を必ず背負う人材」という共通認識が、プラグマティックではない交流につながっていたのだ。
もっとも、経営は軌道に乗らない。5月には3号店をオープンしたが、赤字は膨らむばかりである。1、2号店が120坪の大型店舗だったこともあり、数カ月で未払い金が2億5800万円となっていた。
「とにもかくにも、どうにかしなきゃいけないということで、7月にまたディスコをはじめました。治郎最高ということで、お店の名前は『J-MAX』(ジェイマックス)にして(笑)」
お世話になっている方々に「迷惑をかけないための手段」として再スタートしたディスコは、会社を立て直すきっかけとなる。不透明感が漂っていた経営は見通しがクリアとなり、未払い金は半年ほどで完済した。並行して不振だった居酒屋の業績も、にわかに好転していくのである。
「ディスコで居酒屋のコマーシャルをしていたのはもちろんありますが、提供する料理が急に美味しくなったわけじゃない。何か理由を見つけるとすると、社員の士気高揚ではないかと。ディスコをやるぞとなった瞬間に、会社の雰囲気がパッと明るくなったんですよ。いつも下を向いていたヤツが、上を向くようになった。2億5千万を超える借金さえ、もう忘れているような。ディスコなら誰にも負けない、という気概もあったのでしょうね」
活況を呈する新田の居酒屋は、大手スーパーチェーン「イオン」の関心を惹き付けた。東海地区初の大型店舗内に、「にんにくや」の出店を持ちかけられるのである。これがまた、会社の勢いを加速させた。
独創的な店作りにも着手していく。
実家のある京都から京豆腐や惣菜をすべて運び、本格的な料理を提供する居酒屋を送り出した。ボディコンシャスな衣装を着た女性や、イケメン揃いの男性が接客をする居酒屋が評判になった。ダイニングバーと呼ばれるジャンルも、焼酎ブームも、発信源は新田の店舗である。
「料理に自信がないから、何か違うものでウリを作らなきゃいけなくて。でも、それって邪道なんですよね。もっと真面目な居酒屋を造りたいと考えて、名古屋駅前にサラリーマンのお父さんが集まるような居酒屋を出店しました。それが『てしごと家』です」
3年という期限付きではじめたディスコが終わりに近づく頃には、飲食業の魅力にとりつかれていった。経営のノウハウも蓄積され、新田は「やり方次第では儲かるぞ」という認識を強めていく。
「ディスコは設備投資がものすごくかかりますし、個人でオープンするのは資金的に難しい。居酒屋も普通の感覚なら設備投資がかかるのかもしれないけれど、ディスコを知っているぶん、僕の場合はハードルが低かった。ケンカが起こるとかいうトラブルも少ないですからね(笑)」

ジェイプロジェクトの飲食業の中核をなす「芋蔵」は九州のこだわりの焼酎と、軍鶏、黒豚料理を取りそろえた居酒屋。全国に24店を展開する。

飲食業の魅力に目覚めたのは、新田だけではない。彼を慕ってついてきたスタッフも、可能性の大きさを感じていた。「飲食をやりたいと言うスタッフが、どんどん増えていきましたね」と新田は笑う。会社立ち上げからの3年間で、現在に連なる経営基盤が築き上げられたのだった。

どれだけ人財を輩出したかが
ジェイグループの価値

ジェイグループホールディングスは、新卒採用にこだわっている。アルバイトを重要な戦力と見なす飲食業界では、かなり異色と言っていい。
「アルバイトさんが悪いわけではまったくなくて、僕は『この仕事でメシを食っていくんだ!』と本気で打ち込むヤツらと仕事をしたい。お互いに言い訳の許されないプロフェッショナルの集団でいたいんですよ。株主さんには『人件費が高い』とのご指摘を受けますが、人を育てるのが我々の企業理念ですから。新規に店をオープンするときだけ募集するのではなく、新卒採用で頑張る。人材は将来の大器であり宝ですよ」
株式を上場している外食産業のなかで、ジェイグループホールディングスは正社員率がひと際高い。それでも新田は、「目ざすは100パーセントだ」と力強く宣言する。
「自分が一番大切にしているのは、どれだけ人材を輩出したのか。たとえば札幌へ行って、すすきのの居酒屋へ入ったとしましょう。すると、『以前お世話になりました』と、店主が僕らのところへやってくる。そういう会社にしていきたいんです」
すでに名古屋圏内では、新田の薫陶を受けた人材が続々と独立を果たしている。経営者の立場からすれば、有能な人材を手離すのは口惜しいだろう。だが、欠けてしまったピースを埋めるために残された戦力が切磋琢磨し、やがて組織は新たな人材の台頭を迎える。そうした循環を作り上げてきた自負が、後進へのあたたかな眼差しにつながっているに違いない。

「我々Jグループホールディングスは、名古屋で『鉄の結束を持つ』と言われていて、独立していったヤツらは、『ジェイグループ・チルドレン』と呼ばれています。治郎の『J』をもじって『J魂』を大切にしていると、独立したヤツは言う。まあ、僕が店に顔を出したら誰もがビビりますが(苦笑)、地元の名古屋をみんなで盛り上げていけるのは、素直に嬉しいことですよ」
人材育成のキーワードは「向き」である。実務的なアドバイスはほとんどしないが、仕事に対するメンタリティーには厳しい。胸のあたりをポンと叩いて、新田が話す。
「売り上げが伸びていなくても、やがて成功するための過程と思って上を向いていれば何も言いません。いいんじゃないの、やってみようよ、という感じです。逆に、業績好調でも下を向いているヤツには、『お前、いまどこを向いてるんだ』と問いかける。自分がいまいる〈位置〉じゃなくて、気持ちの〈向き〉を大切にしているんです」

人材育成理念の真骨頂としての
「硬式野球部」

居酒屋チェーン主体の企業としては、革新的な分野にも挑んでいる。2009年4月に硬式野球部を設立し、社会人野球に参戦したのだ。グローバル企業や国内の一流企業が名を連ねる“ノンプロ”の舞台で、「ジェイプロジェクト硬式野球部」は特筆すべき成果をあげている。
創部からわずか3年目で、ドラフト指名選手を輩出した。それどころか、4年目の2012年には都市対抗野球大会に初出場したのだ。居酒屋で働く選手たちの奮闘は、地元の名古屋を中心に大きく報道された。
ここでも新田は、新卒にこだわっている。有名選手をスカウトしたりはしない。その一方で、野球部員への特別待遇もない。年間予算は社会人野球トップクラスの10分の1ほどで、バットなどの支給も予算内で収められる。
「そもそも六大学で活躍したような選手が、ウチには来てくれないでしょう(笑)。我々のスタンスとしても、名門大学出身じゃなくていいんです。ただ、大学まで団体スポーツをやってきた選手は、連帯感の大切さを身体で理解しているし、ツライことをやり遂げた達成感も味わってきている。それって、僕らの商売の本質でもあるんですよ。野球チームも企業も、連帯感、達成感、公平感の三つがあれば、社長が口出ししなくてもうまくいくものです。みんなで力を合わせて頑張るのが、彼らはうまいんですよ」

ジェイプロジェクト硬式野球部と。

プロ野球界の“レジェンド”である長嶋茂雄に憧れ、野球に打ち込んだ少年時代を過ごした新田にとって、野球チームの創設は個人的に叶えたい夢のひとつだった。知人の応援に出かけた都市対抗野球大会で、企業スポーツの素晴らしさに触れたことも彼の背中を押した。愛する野球文化の醸成の一助になりたい、との思いもあった。
純粋な思いが折り重なった硬式野球部の創設は、結果としてビジネスにも好影響を与えている。
忘れられない場面がある。
2012年の都市対抗野球への出場を決めた一戦だ。
金曜日のナイトゲームだったため、ほとんどの社員は応援に駆けつけることができなかった。野球部員に声援を送ったのは、30人ほどだっただろうか。
1対0で奇跡的な勝利をつかんだ試合後、完封勝利した井田頌二投手がマイクを向けられた。普段は「芋蔵」のキッチンに立つ男は、「いま何時ですか?」と切り出す。インタビュアーが「8時40分過ぎです」と答える。井田投手は喜びを表わすことなく、静かに語り始めた。
「今日は金曜日で、しかもこの時間帯は、どこのお店も大変なはずです。それでも頑張ってこいと送り出してくれた仲間の皆さんに、まず感謝をしたいです。この時間に野球をやらせてもらえる僕らは、本当に幸せです」
スタンドにいた新田は、人目をはばからずに号泣した。
「野球部を作って良かったなあ、いいチームになってくれたなあ、と思いました。選手たちもね、言いたいことはあるはずなんです。自前の球場はないし、道具も満足に支給できていない。そのなかで勝ったのは、褒めてあげたいですね」

都市対抗野球大会東海地区予選代表決定戦で勝利。全国大会出場を決め、胴上げされる新田。

新田の掲げる理念は野球界に浸透しつつあり、甲子園経験者などが入社──ノンプロの名門チームのように野球に専念するわけではないから、入部ではなく入社である──してくるようになった。野球部員たちはそれぞれの店舗に活気を持ち込み、自分だけでなく同僚をも輝かせる存在となっている。
「野球部員がひとり入るだけで、店の雰囲気は変わります。前年対比を見ても、業績は上がっている。その選手に会いたくて、ご来店されるお客さまもいますよ」
野球部を通した地域貢献にも積極的だ。少年向けの野球教室などが、定期的に開かれている。
「ノンプロまでになると、相当にレベルが高い。そういう選手たちに教わったら、子どもは感動しますよ。野球教室は地域貢献であり、地域密着ですね」

硬式野球部は、地元の学生、子どもを対象に野球教室も行う。
11年、オリックスから5位指名で庄司隆二捕手を輩出。

自分ではなく、
社員の夢と未来に賭けたい

自他ともに認めるバイタリティと強烈なカリスマ性を強みとして、新田はジェイグループホールディングスをパワーアップさせてきた。周囲からは「体育会の気質が漂う」と言われるが、信頼関係は双方向だ。
社員の声には立場を問わずに耳を傾け、意気込みが伝われば、どんな業態のお店でも、飲食ではない業界にもGOサインを出してきた。「イケイケドンドンが社訓ですから」と白い歯をこぼすが、圧倒的なまでの包容力が会社の可能性を拡げてきたのは間違いない。
「僕らの会社はそんなに大きくもない。そういう意味では毎日が挑戦の連続で、立ち止まらないこと、下を向かないことが挑戦。何ができるかなんて自分には分からないし、何をやろうとかいう具体的なビジョンを掲げるのでもなく、できることなんでもやりたい。僕自身はね、ひとりでも多くの社員の夢を叶えてあげたいんですよ。プロ野球選手になりたいと思って、居酒屋で頑張っているヤツもいる。そのなかのひとりの夢を、叶えることができた。みんなの夢が実現するために、ちょっとでも手助けになれたらと思っているんです。それが、社長としての挑戦じゃないですかね」
新田自身は野心を抱いていないのだろうか。「いやいや」と言って、彼は右手を振った。
「自分の挑戦なんかより、未来のあるヤツに賭けたい。若いヤツが新しいことにチャレンジする姿、夢に向かっていく姿を見るのが嬉しいし、幸せを感じるんですよ」

新田治郎

にった・じろう

株式会社ジェイグループホールディングス 代表取締役

1966年京都生まれ。高校卒業後に上京し、マハラジャなどディスコを経営する日本レヂャー開発株式会社へ入社。長野、金沢、仙台などの売上低迷店舗を次々に立て直した手腕をかわれ、東海地区を統括する名古屋レジャー開発株式会社の社長に、史上最年少24歳で就任。バブル崩壊後、親会社の経営難から同社は解散。1997年、ジェイプロジェクトを立ち上げ、飲食店を複数同時オープン。2003年、東京へ進出。全店舗直営方式で、名古屋、東京を中心に居酒屋やレストランを展開する。05年、愛・地球博に出店。その後も店舗を拡大し、06年11月、東証マザーズへ上場を果たす。12年9月、ホールディングス体制に移行し、株式会社ジェイグループホールディングス代表取締役に就任。
2009年、ジェイプロジェクト硬式野球部を発足。11年、プロ野球「オリックス・バファローズ」からドラフト5位指名で庄司隆二捕手を輩出。12年、第83回都市対抗野球大会予選で東海地区代表を勝ち取り、全国大会初出場を果たす。

株式会社ジェイグループホールディングス
http://www.jgroup.jp/

ジェイプロジェクト硬式野球部
http://www.jproject-bbc.jp/


愛用のアイテム 都市対抗野球出場を決めたウイニングボール
愛用のアイテム
都市対抗野球出場を決めたウイニングボール

「選手がくれたんですけどね。試合はホントにピンチの連続で、そこに飛ばないとアウトにならないというようなプレーばかり。奇跡的な勝利でした。いまこうして話をしていても、胸が熱くなる。スポーツはみんなの情熱をひとつにしてくれる、心の社旗ですよ」

好きな本

「まったく読まないんですよね(笑)。松下幸之助さんの著作だけは大好きで、何冊か読んでいますが。そのかわりではないですが、新聞には必ず目を通します。日経と地元紙、それとスポーツ紙に。野球に限らずサッカーでもラグビーでも何でも好きなので、スポーツ紙はスミからスミまで読みます」

好きな音楽

「これが好きというのはとくにないけれど、邦楽は演歌でもAKB48でもなんでも聞きます。ディスコで働いていた当時は、いつも爆音のなかで過ごしていたでしょう。その反動なのか、普段は音楽を積極的に聞かなくなりました。車のなかも無音です」

好きな映画
ルーキーズ

「感動モノが大好きなので、『ルーキーズ』かな。ダメなヤツらだけど頑張って、頑張って、諦めずに何かをつかむというのは、自分にとっても励みになるので。ウチの会社も『ルーキーズ』っぽいところがありますし。でもこれ、カッコ悪くないですか(笑)?」

2013/02/28

当「ファウスト魂」ページは、2012年8月~2014年2月まで日経電子版に掲載されていた特別企画を転載したものです。