Vol.009

企業の意識改革の伴走者

佐藤信也

株式会社イー・コミュニケーションズ代表取締役

近年目まぐるしく変わる、企業を取り巻く社会環境。そんななか年々声高に必要性が叫ばれる、企業の経営理念やコンプライアンス意識の浸透。そういった、社会に求められる企業の人材価値を高める教育プログラムやソリューションをインターネットで提供するのが、eラーニングの開拓者、イー・コミュニケーションズだ。代表の佐藤は、クライアントの企業価値向上を一心に願い、その根幹を人材育成から支えるサービス開発に余念がない。一方、その多忙なスケジュールの合間を縫って、小学低学年以来というピアノの習得に打ち込んでいる。1月にサントリーホールという大舞台で、クラシックの名曲を演奏する発表会を控えているからだ。eラーニングもピアノも、「縁」を信じて今の挑戦に至った佐藤のファウスト魂に迫る。

色即是空、空即是色

暖かな笑みを浮かべながら、佐藤信也は切り出した。
CBT(computer based testing)において圧倒的な地位を確立し、eラーニング用のコンテンツ開発など幅広い事業を展開するイー・コミュニケーションズの代表取締役は、人を包むような気配をまとっている。
「僕が仕事に打ち込む原動力は、新しいことにチャレンジしていきたい気持ちと、人とのご縁を大切にしたい気持ちの二つです。人との“縁”のなかに何か新しい可能性があって、そこへ飛び込んでいくというスタイルが多いですね」



インタビューはイー・コミュニケーションズの社長室にておこなった。

ビジネスマンとしての第一歩は、リクルートコスモス(現コスモス・イニシア)で踏み出し、不動産事業に7年間従事したのち、友人に誘われるままに多店舗展開型飲食事業の創業メンバーに加わる。
「飲食の仕事を一年半やって辞めるとなったときに、お店で働いてくれていた中国人の学生が、『兄が中国で貿易業を営んでいるんですが、興味があったら話だけでも聞いてみませんか』と声をかけくれたんです。それで、一度会ってみることにしました」
大きな期待を抱いていたわけではない。ただ、「これからは中国でのビジネスもイケるんじゃないか」という予感めいたものがあり、「せっかくの縁を無駄にしたくない」という自分なりの人生哲学が、佐藤をつき動かした。
「そこから中国人の技術者の方と出会い、インターネットの世界に飛び込むことになります。これもまた縁ですね」
やがてはGDPで日本を上回る中国のポテンシャルを、佐藤はいち早く察知していたのである。同時に、まだ黎明期だったインターネットの可能性にも。
「そこまで先見性があったわけではありません(苦笑)。ホントにご縁に恵まれたということなんです」
そう言って佐藤は、胸に刻む言葉を明かした。
般若心経の「色即是空、空即是色」である。
「当時の僕は、結果に対してコミットするコンサルタントとして様々な商材を扱っていました。『リザルタント』という肩書なのですが、その生みの親である芦沢公男さんに教えてもらったのがこの言葉です。色即是空をわかりやすく言うと、『私たちの目に見えているものには色がついているけれど、すべては変化して消えてしまうものであり、本来は実体は何も無い』ということになります。芦沢氏の考え方は独特で、『空』を『縁』と訳していいんじゃないか、と。つまり、『いまこうして自分がいるのは、縁のおかげなんだ』と。その考え方に立って、『空即是色』を『縁即是色』と置き換えると、『世の中のすべてのことは、縁を通して実体として目の前に現われている』ということになります。さらに一歩進んで、『いま自分の周りにある縁を大事に積み重ねていけば、将来どういう自分になりたいのかが予測できる、見えてくる』ということにもなります。二つの言葉を組み合わせると、過去の自分を俯瞰して、未来を予測することができる、という考え方になるんですね」

学ぼうとする者のよき同伴者となる

やがて佐藤は、インターネットを使った教育分野に着目する。2000年5月、株式会社イー・コミュニケーションズを設立した。
〈人の限りない成長と豊かな学びを支援する教育・ITソリューション企業〉をうたう同社の強みは、現在地の可視化と問いかけにある。佐藤の語り口が、熱を帯びていく。
「たとえば、ダイエットには体重計が必要ですよね。いま何キロで、あと何キロ痩せたら目標達成か、ということが分からないと意欲が持続しない。マラソンもそうでしょう。eラーニングにおいても、自分の現在地をはかって、どれだけ成果が出たのかを把握しながら頑張るのが、我々が提供しているメソッドですね」
目標の可視化の先には、「諦めない社会」を見据える。自らも何度かの挫折経験を持つ佐藤は、学習意欲が持続する環境を作りたいと願うのだ。

同社の「コンプライアンス教育ツール」ページ。
同社の「ビジョン検定」ページ。

「たとえば、英語の教材は1月と4月によく売れるそうなんです。新年から、新学期から、勉強をしようという人が多いからでしょう。でも、2か月後くらいには売り上げが落ちてしまうそうです。あるいは、どうやって学び始めたらいいのか、どうやって学力を伸ばしたらいいのか分からないので、スタート地点で諦めちゃう人もいると思うんです。そういう人たちが、どうやったら学び続けていけるのか。それはやみくもに勉強するのではなくて、最初にスタート地点を測り、目標を決めて、自分に足りない部分を埋めていく。さらに『人は問われて初めて真剣に考える』、ただ文章を読むだけでなく、ドリルの繰り返し学習で知識の定着を図るという、私たちのコンセプトに沿った学習メソッドと自発性を促すシステムの仕掛けで、負荷なく、楽しく、諦めずに最後まで継続して頑張っていきましょう、という環境を提供していきたいと考えています。学ぼうとしている方の伴走者であり、コーチであり、シェルパのような役割を担うことができたらうれしいですね」

企業の血脈、ビジョンを全社に行き届かせる

2013年へ向かって力を入れている事業もある。ビジョン検定だ。
会社の経営理念やビジョン、価値観や行動規範などを、問題で解いていくことで従業員に深く浸透させるものである。
「色々な会社の社員教育をさせていただいて、コンプライアンスの教育、営業力の強化、技術者向けのトレーニングなどをご提供していますが、そのなかで会社の根幹である経営理念、企業理念を社員に理解させていこうと。この部分がしっかりしていれば、他の教育はもっと生きてくるという考えに行き着いて、理念をいかに浸透させるのかに力を入れています」
企業のブランド価値を高めるために、コンプライアンス教育は不可欠と言っていい。そうしたニーズに応えるために、イー・コミュニケーションズはきめ細やかなプログラムで企業をサポートしている。
「企業コンプライアンスは法令遵守と訳されることが多いですが、『compliance(comply) with ~』で『~の期待に応える』という意味になります。そのためには最低限、法令遵守をしなければならないし、お客様や社会の期待に応えるためには何をやらなければいけないかの明確化が、コンプライアンスという概念の中核にあるはずです。周囲の期待に会社が応えるためには、会社のアイデンティティーをわかっていないとできないですよね?
まずは根幹となる経営理念を社員の皆さんに理解してもらい、それからビジネスマンとしての知識やスキルを覚えていってもいいのでは、というのが我々の提供するビジョン検定の考え方なのです」
企業理念や経営理念を問題に落とし込んでいくためには、制作側がクライアントとなる企業を熟知しなければならない。必然的に、企業コンサルティングやブランディングの要素も含まれていく。費やされる時間は膨大だ。

佐藤は、昨今では経営者が集まると理念経営の浸透の話題に熱を帯びることも多いことから、2012年12月に初の著書(共著)『社長の思いが伝わる「ビジョン検定」のすすめ』を出版した。

佐藤は思わず苦笑いを浮かべた。
「ただ、そこはメソッドがありまして、社長さんや経営陣が語りたいことを八つのカテゴリーに分ければ、企業理念や経営理念はおよそ伝えることができるんです」
そう言って佐藤は、八つの項目をあげた。
1)会社の歴史
2)事業領域、空間的な発展の歴史
3)マーケティング
4)技術的な資産
5)将来のビジョン
6)ビジョンへ向かっていくための日々の規律
7)経営陣のリーダーシップ
8)従業員へのメッセージ
「以上の八つを押さえると、いいスピーチ、いい原稿になります。それぞれの要素をひとつずつ切り出して、具体的なエピソードを織り交ぜた問題を作ると、社長や経営陣の考えが従業員に伝わっていくという仕掛けがビジョン検定ですね」。
ビジョン検定の拡大に注力しつつ、さらに壮大なスケールのビジネスも描く。佐藤の表情に、明確な野心が浮かんだ。
「日本はグローバルに進出していますが、最大にして最後の輸出産業は『教育』じゃないかと思っています。日本人の知恵やノウハウを、どうアーカイブ化して海外に輸出していくか。そのパッケージ化に、我々が寄与していきたいんです。たとえば中国でも、日本人のホスピタリティーを学びたいという声があります。会社のノウハウがeラーニングで残っていったら、『これが日本人の知恵だ』と示すことができます。インターネットベースで伝えていくために、日本発のCBTの技術で世界に打ってでたい。3年から5年のスパンで、日本の教育の輸出を完成させたいと思っています」

クラシックの名曲をピアノ演奏、サントリーホールデビュー!?へ

チャレンジ精神が発揮されているのは、ビジネスシーンだけではない。プライベートにおいても、佐藤は自らの可能性を追求している。
来年1月30日に、東京・六本木のサントリーホールでピアノを演奏するのだ。
それも、クラシックの名曲を。数百人規模の聴衆の前で成果を披露する発表会である。
ピアノとの関わりは、決して深くない。「小学校入学から3、4年生までやっていましたが、それ以来のトライです」と言う。
サントリーホールで聴衆の拍手を浴びることになるとしても、その意味合いは賞賛ではなく、いたわりやねぎらいとなる可能性が否定できない。もっと言えば、恥をかいてしまうかもしれない。
「一緒にやろうと友人に誘われたのがきっかけなんですが、はじめは断ったんです。クラシックではなくジャズピアノならいいけれどなあ、なんて言ってまして。ただ、その友人が1年前にサントリーホールで弾いたのを、僕も観に行っていたんですね。素晴らしい時間でしたし、せっかく誘っていただいたのも縁だなあと思うようになって。武村先生との出会いも大きかったですね。リスナーのひとりとして聞いていたプロの方から、指導を受けることができるのは。武村先生が弾くショパンは、本当に素晴らしいんです」
佐藤をピアノの世界へ誘った(いざなった)友人は、ピアニストの武村八重子さんの指導を受けていた。脳を鍛える独特な指導法が持ち味という『武村メソッド』は、企業家の友人たちを魅了していた。
「武村先生は脳理論、脳科学を勉強されていて、ピアノの指導も脳の働きを意識したものです。たとえば、僕は右手より左手が良く動くので、仕事の仕方も右脳型ということに気づかされました」

「武村メソッド」とはピアノ演奏を脳科学の観点からとらえる理論に立脚した武村独自のピアノ習得プログラム。人間の能力ならぬ脳力を活性化するところからスタートするそうだ。

武村さんの指導は、技術的なアドバイスに特化したものではない。楽曲が生まれた背景を知り、作曲家の心に近づこうとする。
「どういう思いで作られた曲なのかをインプットして、こういう感情表現をしましょう、と教えてくれるんです。何だかビジョン検定に似ているなあというのも、武村先生の指導にひかれている理由ですね(笑)。僕はショパンの『ノクターン 遺作 レントコングランエスプレッシオーネ』を弾くんですが、これは彼の遺作ではありません。映画『戦場のピアニスト』でも使用された曲ですが、紛争※のために祖国へ帰れなくなったショパンが、祖国への思いや葛藤をこめて弾いたものです。最後は天国へ導かれるようなフレーズに変わっていきます」

※紛争……1830年にポーランドやリトアニアで発生したロシア帝国の支配に対する武装反乱「11月蜂起」のこと。

本格的なトレーニングは7月末からで、武村さんに学ぶのは月に2回ほどである。ビジネスに支障をきたさないようにすると、これ以上の頻度で通うことはかなわない。
もっと練習をしたい、しなければいけない、という気持ちは、衝動に近いものとなっている。「2013年は年明け早々から突っ走ろうと思っています」と語る佐藤のオフィスワークは、年末のギリギリまで多忙をきわめる。ピアノの練習に充てている時間は、絞りに絞り込んでどうにか作り出したものだ。
「先生のところには月に2回しか行けないので、電子ピアノを買って自宅で練習をしています。平日は帰宅が早ければ練習をして、週末は必ずやっています」

ピアニスト武村八重子とのレッスン風景。

鍵盤を叩くようになって、気がついたことがある。
「仕事を全開でやって帰宅すると、頭も身体も疲れている。でも、ピアノの練習をはじめると、あっという間に1時間ぐらい経っているんですね。仕事以外でそれだけ何かに没頭する時間が持てるのは、ストレス発散になります。オンとオフの切り替えにもなっていますね」
10月に行なわれた中間発表会では、誰もが緊張感に包まれていた。7人の出演者たちは、練習と実戦の違いを痛感させられることになる。佐藤もまた、「ペダリングがスムーズにできなかった」と振り返る。
「武村先生に言われたのは、間違えても演奏者と先生以外はほぼ分からないから、グイグイ弾いた者勝ちだと。それを聞いてからは緊張が和らぎましたが、人前で引く練習、緊張しながら演奏する練習を増やさないとうまくならないでしょうね。ただ、ムチャクチャ鍛えられてますよ。人間力が磨かれる気がします。経営者は人前で話すことはしょっちゅうですし、交渉場面で相手からカウンターパンチを食らうことがある。そういうときでも、グイグイ押していけるんです(笑)」
佐藤を長く知るイー・コミュニケーションズの井関英明CHO(人事執行担当役員)によれば、「もともと佐藤は前向きなのですが、このところ前向き度に拍車がかかっている印象があります。意欲がものすごく高くて、エネルギーに満ち溢れています」と語る。佐藤自身も自らの変化を感じ取っている。
「自分が打つ手に対して、自信を深めている感じがします。この方向でいいなという確信を持てているし、それが社内のみんなに賛同してもらえている実感もあります」
およそ4分間の演奏のために、佐藤は膨大な情熱を注いでいる。
チャレンジの末に何を得ることができるのか、いまはまだ分からない。はっきりしているのは、ビジネスがプライベートを引き立て、プライベートがビジネスの意欲を高めるという好循環が生まれている、ということだ。
一切の妥協と言い訳を排除して、佐藤はステージを目指す。

佐藤を待ち受けるサントリーホールの小ホールのピアノ。

佐藤信也

さとう・しんや

株式会社イー・コミュニケーションズ代表取締役

早稲田大学卒業後、株式会社リクルートコスモス(現コスモス・イニシア)に入社。不動産ビジネスに7年間従事したのちに退職し、多店舗展開型飲食事業に1年半従事する。その後、ITコンコルタントとして活躍し、やがて活動範囲を教育分野へシフト。2000年5月、資格検定テストのインターネットによる受験申込みシステムの構築と運用管理を主業務として、㈱イー・コミュニケーションズを設立。代表取締役に就任する。03年、CBTのプラットフォーム開発に成功し、様々な検定や社内資格試験をウェブで提供していく。また、自社においても企業文化の醸成に力を注ぎ、理念を取り入れたオフィス作りや社内全員で社歌を作る取り組みなどを行なっている。12年12月『社長の思いが伝わる「ビジョン検定」のすすめ』(共著/日本能率協会マネジメントセンター)出版。

愛用のアイテム 社歌 『let‘s~前へ~』
愛用のアイテム
社歌 『let‘s~前へ~』

「社歌制作のきっかけは、2010年の10周年記念パーティーで社員やその家族への感謝の気持ちを歌ったときに、『人の替え歌じゃなくオリジナルの社歌を、いつかみんなで歌えたらいいな』と思ったこと。2011年11月に「イーコミ社歌プロジェクト」が発足して、社員全員で歌詞のキーワードから考えていきました。カラオケで配信されているので、忘年会や会社の宴会のときにはみんなで心を一つにして歌うんです」

好きな本
『ビジョナリー・カンパニー2 飛躍の法則 GOOD TO GREAT』

「良い(グッド)と言われている会社が、偉大な(グレイト)会社へ転換するときには、こういうことが起こっているという実例が記されています。起業当初の僕は小さくてもグッドと呼ばれる会社がいいと思っていましたが、経営者としてやっていくからには、グレイトと呼ばれる会社に器を拡げていきたい。刺激になることの多い一冊です」

好きな音楽

「いまはショパンに凝っていますね。車のなかで聞いたり、スポーツクラブで走りながら。武村先生の影響でストーリーを知ってしまうと、そのストーリーを投影してもう一度聞いてみたくなります」

好きな映画
『マネーボール』

「ブラッド・ピット演じる主人公は、根性論ではなく緻密なデータで球団を建て直す。我々の会社の事業メソッドに近くて、それを分かりやすく表現している映画かな、という印象がありますね」

2012/12/26

当「ファウスト魂」ページは、2012年8月~2014年2月まで日経電子版に掲載されていた特別企画を転載したものです。