Vol.007

冒険は社会貢献を担う時代へ

風間深志

冒険家

冒険心を忘れない、と口にするのは簡単だ。
しかし、仕事に追われる毎日を過ごしているうちに、少年時代に抱いた純粋な思いは置き去りにされがちだ。年齢を重ねても冒険心を持って生きる者に、日本の社会はどこか冷ややかな視線を向けたりもする。
風間深志は人生のすべてを冒険に捧げてきた。
彼が紡ぐ言葉には夢があり、希望があり、楽しさがあり、喜びがある。

自ら「冒険家」と名乗って

冒険家としての原点は、中学校2年の冬に見た風景にある。中学校の行事を欠席して、風間はひとりで山を目ざした。
「僕は山梨県山梨市の出身で、1月10日に消防団が中学のグラウンドで出初式をやるんですね。長いはしごに乗るパフォーマンスを。よしっ、オレも高いところへ登ってやろうと思って、標高538メートルの烏森山に、まだ免許がなかったんだけど大好きなバイクを(手で)押し上げて登ったんだ。もう、汗だくになりながらね」
 眼下に広がる景色の素晴らしさに、爽快な気持ちがこみ上げてきた。バイクを押し上げるという自分だけの方法で、自分ひとりで作り出した喜びが、身体中を駆け巡る。

インタビューは埼玉県さいたま市の風間の事務所で行った。

「それからもう、バイクの虜になりましたね。16歳になって免許を取ったら、今度は運転して登ろうと」
免許を取得した風間は、日本中を旅した。建設中の道路にこっそりともぐりこみ、「一番乗りだ」と密かな満足感に浸ったこともある。 「一番というのは、冒険のキーワードだからね」
大学卒業後は出版社に就職した。バイク雑誌の編集者となった。趣味と仕事を両立できる仕事だ。
「編集者を8年間やりました。雑誌は売りましたよ。もともと6万部だった売り上げを、30万部まで伸ばしましたから。でも、僕がバイクを走らせるのは、まだ見ぬ景色を求め、自然の奥深さや広さに好奇心や冒険心を燃やすため。30歳を節目にもう一回、14歳の自分に戻ろうと思った。しかも、1年に1回は、大きな冒険をしてやろうって」
最初に目ざしたのは、キリマンジャロだった。実は長期休暇を取っていこうと考えていたのだが、会社側の返答は「NO」だった。それならば、やめるしかない。キリマンジャロ行きではなく、会社を。サラリーマンと決別した。
新しく作った名刺に、風間は「冒険家」という肩書をつける。
「1977年に、友人のレーサーが350ccのロードレースで世界チャンピオンになったんです。日本初の快挙でした。でも、一般紙では10行ぐらいの記事にしかならなかった。それが、僕がキリマンジャロにバイクで行くと発表したら、15段抜きの記事になったんです。同じバイクの記事でも、冒険にラップすることでこんなにも大きな記事になるのか。やっぱり冒険は、少年も老人もひとつに包む、魅了する行為なんだと思ってね。自分の場合は冒険にバイクがあればいい、バイクを普及させるには冒険家って名乗っちゃおうと。恥ずかしかったけどね、ハハハハハ」
キリマンジャロに挑戦した2年後の1982年、「パリ・ダカールラリー」に日本人ライダーとして初めて出場した。翌年はメキシコで、その翌年はフランスでレースに出場する。84年、85年とエベレストに別ルートで挑み、87年には北極点に到達する。史上13隊目のことだった。
「北極に行ってやっと、冒険家って認められたかな。まあでも、冒険にスタイルはない。あるのは夢と好奇心でしょう。あらゆる芸術も文化も、たとえば音楽なら五線譜のなかに新しい旋律という冒険があったからこそ、『ああ、これはいいねえ』と人々の感性にシンクロする作品になるんじゃないかな。自分の場合はバイクを使って、好奇心に誘われて進んでいったんだよね」
好奇心という無限のエンジンは、地球全体を冒険のフィールドにした。北極だけでなく南極にも到達した。両極点征服は、日本人初の快挙だった。

「障害者日本縦断駅伝 完結編」 フォトストーリー Part.1/3

2013年4月~6月、風間はWHO「運動器の10年」世界運動イベント第5弾として、障害者ら108人のたすきリレーで宮城→札幌→那覇の3,000キロを走破する駅伝を主導した。

「障害者日本縦断駅伝 完結編」(朝日新聞後援)は2012年4月28日に震災復興支援のため、宮城県庁舎からスタートし、北上。翌日には南三陸町の防災対策庁舎跡をはじめ、被災地を走った(写真)。
4月30日、気仙沼の湾からおよそ500mに船が打ち上げられていた。
5月4日、札幌にて大雨の中、車いすレーサーの鈴木良美さんが歯を食いしばって走る。
5月6日、北海道を巡り終え、津軽海峡フェリーで青森へ。
5月13日、新潟にて。わざわざ山梨・甲府から参加した塚原心太郎くんが走者を務め、2キロをつないだ。
5月14日、新潟・糸魚川にて、長野パラリンピックのスキー選手、音田勉さんが走った。

生涯冒険家から“傷害”冒険家へ

年齢を重ねても尽きることのない情熱は、風間を二度目の“パリ・ダカ”へ向かわせる。2004年、彼は53歳になっていた。
「もう一度大きな冒険としてパリ・ダカに出て、50代後半に向かっていこうと思ってね。周りのみんなは何でいまさら出るのと言ったけど、パリ・ダカには褐色の大地と青い空がある。そこに挑んだらまた新しい発見があるんじゃないかと思ったんだ。そうしたら、あっという間にモロッコでケガをしちゃった。ハハハハ」



人生を左右した大怪我を、風間は笑い飛ばす。だが、当時の悔しさはいまなお胸のなかで疼いているはずだ、事故はレース中ではなく、移動中に起こった。しかも、無理な追い越しをするトラックに巻き込まれたものだった。
左足を粉砕骨折した風間は、モロッコの首都ラバトの陸軍病院へヘリで運び込まれた。数日後にはパリ市内の公立ピティエサルペトリオール病院に移送される。そこで、スポーツ外傷の世界的権威であるジェラール・サイアンの治療を受ける。彼はサッカー元フランス代表のジネディーヌ・ジダンや元F1パイロットのミハエル・シューマッハー、さらには元横綱の貴乃花らも手術を受けた名医だ。
「サイアン先生はシラク元大統領の友人で、フランス国民なら誰でも知ってるぐらいの英雄なんですね。すごくいい治療でした。入院したのが1月で、そのまま治療していれば5月にはステッキなしで歩けると言われていた。でも、保険に入っていないのが泣きどころで。入院費が1日14万円もかかる。1カ月が経ってもう居られないので、サイアン先生にはかなり無理を言って、日本のとある有名な病院に転院したんです」
日本の医療は世界に冠たるものだという確信を、当時の風間は抱いていた。だからこそ、ドクター・サイアンのもとを離れることにもためらいはなかった。
ところが、彼の足はまったく快方に向かわないのである。
「むしろマイナス方向でした。5月どころか6月になっても歩けないし、あげくにバイ菌で感染して、膝が腐ってしまった。お皿を摘出することになったんです。このままだと悪化する一方だという焦り、ケガが良くならない憤り、治療に対する疑問が膨らんで、懐疑的な気持ちになっていきました」
風間が「いつ歩けるようになりますか、いつごろ退院できますか?」と聞いても、担当医は「そんなことを考えちゃいけない」と退けるばかりだった。
早く退院したいと願うのは、普通のことではないのか?
ケガの具合を知りたいのは、当たり前の欲求ではないのか? 心の声を抑えきれなくなった風間は、転院を決意する。
全国を歩き回り、病状を説明し、病院を紹介してもらった。複数の医師が「それならあそこがいい」と口を揃えたのが、帝京大学病院であり、松下隆先生だった。現在も続く主治医との出会いである。
「先生に手術をしてもらったら、骨がパシっとくっついたという感覚を得られた。人間は頭のなかに自分の骨格の設計図があるんだろうね、“パシッとくっついた”のが分かるんだよ」

WHO承認「運動器の10年」との出会い

鬱病になるほど思い悩んだ日々から、風間はようやく解放された。だが初期段階の治療ミスが仇となり、完治にはいたらなかった。かろうじて歩けるが、左ひざから下はほとんど力が入らないという後遺障害を負ってしまう。

率直な意見交換のできる松下先生との交流から、彼は「運動器の10年」(※)という活動を知る。
「外傷医療のレベルアップと健康意識の啓蒙を目的とした活動です。運動器は生活をしていくうえですごく大切だけど、日本は農耕民族だからなのか、ケガをしたときに『命があって良かった』と言いますよね? でも、欧米人は違って、『命があっても動けないとしかたがない。人間らしく活動できることが大切だ』という意識を持っている。これはもう文化です。欧米は狩猟社会で、動けなくなることは死を意味するぐらい大きい。必然的に、その部分での医療の発展はすごい。日本も外傷医療のレベルが高くなってほしいし、そのバックグラウンドは国民の意識です。運動器が健康である意味をもう一度認識して、運動器の医療の普及と発展を前進させるキャンペーンは、意義のあることだと僕は思いましたね」
理念に共鳴した風間は、「運動器の10年の伝道師になろう」と決意する。
「第一弾は退院の門出と冒険を兼ねて、素晴らしい外傷医療をやっている現場を訪ねようと。その過程で、『運動器の10年』のバッジを配ろうと。それが2007年のユーラシア大陸横断でした」
10年という区切りは、2000年から2010年までである。風間は世界各地をバイクや車、自転車で横断しつつ、国内でも啓蒙活動を行なっていった。
「2010年にスウェーデンにある本部から、特別功労賞を頂いたんですね。キャンペーンもさらに10年続くことになり、新しい10年がスタートした。自分は何をしようかと考えたときに、日本を縦断しようと」

(※)1999年に国連のアナン事務総長(当時)が支持を表明し、WHO(世界保健機構)により発足が宣言された。運動器に関わる病気の制圧を目ざし、日本では2000年から活動が始まっている。公式サイトhttp://www.bjd-jp.org/

「障害者日本縦断駅伝 完結編」 フォトストーリー Part.2/3

パートナーの“テツ”と坂道競争をする風間(右)。
5月20日、兵庫・豊岡市で植村記念館を目指して進む。
植村直己さんの故郷・豊岡市は町ぐるみでの応援と参加で出迎えた。
5月22日、鳥取・大山の麓、モンベル大山店に向かって坂を登った。
5月28日、大分でシドニーパラリンピック、ハンドサイクル選手の廣道純さんと、くたくたの風間。
5月29日、大分でのたすきリレーの一幕。城隆志さん(左)から笹原廣喜さん(右)へ。

 

心が健康な人こそが本当の健常者

2010年に列島縦断キャンペーン「障害者日本縦断駅伝」として、沖縄から北海道まで27の都道府県、2,300キロをタスキでつないだ。運動器に障害を持つ人たち127人のリレーから、「頑張る、諦めない、手をつなぐ」ことの大切さを訴えかけた。2012年4月に再びスタートしたその「完結編」は、被災地の宮城県をスタート地点に選んだ。
「宮城県から八戸まで440キロ走り、北海道の札幌からリスタートして沖縄の那覇まで行きました。障害者に光が当たって自分たちも参加できるイベントとしては、パラリンピックがある。でも、あれはすごい人たちの集まりですよね。そうじゃなくて、誰でも参加できて、健康の大切さを啓蒙できるものが、このマラソンなんですよ」
総距離3,000キロ、障害者ら走者108人におよぶ駅伝。たすきを胸にかけたランナーは、誰もがこぼれるような笑みを浮かべる。自分が受け持つルートを、あらかじめ走り込む人もいた。

「走る人たちは、みんなうれしいんでしょうね。ただ、周囲の受け止め方は様々です。応援するのが奥さんだけのランナーがいれば、市長さんまで沿道に出てくる地域もある。人々の潜在意識として、障害者を見たくない気持ちはどこかにあるのかな、と思います。イギリスはパラリンピックが盛り上がったけど、日本はそこまででもなかったし。それは文化だからね、しかたがない。でも、やりがいはあります」
風間の言葉に力がこもる。使命感が宿る。
「健常者が1年に3万人も自殺をしたり、6人にひとりが鬱と言われる時代では、健常者という言葉が色褪せて見える。いまこそ、元気を啓蒙していかなきゃいけない時代で。元気とは何だろう? 障害者と健常者の違いは何だろう? 僕はね、心が元気な人は健常者だと思うんです。気持ちが元気で初めて健常者。そして、義手や義足の人でも、元気を与えることができるわけです」

「障害者日本縦断駅伝 完結編」 フォトストーリー Part.3/3

6月1日、宮崎県庁にて外山功三さん(手前)と出発。
沖縄・本部、東シナ海沿いを走る。もうすぐだ。
6月4日、ついに沖縄・豊崎美らSUNビーチについにゴール!3,000km、108人のたすきリレーを成功させた。

 

21世紀の冒険には社会貢献の役割がある

身体の機能が損なわれている意味では、風間もまた障害者である。伸ばしっぱなしの左膝をさする表情は、少しだけ険しい。



「毎朝足が痛いんだ。膝が曲がらないし、まったく力がないから、下りの道が大変なんです。かといって義足じゃないから、訴求力がいまひとつ足りない……。でも今は、弱い体力、足腰を克服しなきゃいけないのが、自分なりのテーマですからね。そのなかで、障害者の人たちにエールを送るのが自分の役割かなと。外に出よう、勇気を持とう。どんどんアグレッシブに行こうよ、健常者に負けないように頑張ろうよ、という冒険的エールを送るのが、いまの自分のできる範囲かなと思う」
より高く、より遠く、より速くといった個人の冒険心を満たす時間は、もはや持つのが難しい。それでも、風間の冒険は続いている。
「21世紀の冒険には、社会貢献の役割があると思う。自分ひとりの冒険じゃなくて、みんなに共有していかなきゃいけない。僕には決して変わらない志向性があって、どういう障害があっても自分らしく前向きに生きるというのがそれ。自分を客観視して改めて分かったことでね。ケガしてもしなくても、やることは同じなんじゃないか。むしろ、障害者になったほうが、広い視野になって、物事を熱く見るようになったかな、という気がする。悲しんでいる限り、強くなれない。膝が痛いとか動かないとか言っている限り、強くなれない。それは乗り越えていかないと。でもまだ、障害者8年生だから、厳しいんですけどね」
生涯冒険家から“障害冒険家”となった男は、そう言って「ハハハハハ」と乾いた笑い声をあげる。自分の意思どおりに動いてくれない膝との付き合いは、毎日が格闘である。だからこそ、彼は「運動器の10年」のキャンペーンに情熱を注ぐ。歩く、走る、腕を振る、手を回すといったごく当たり前の運動機能が、どれほどかけがえのないものかを、ひとりでも多くの人に知ってほしいと願う。
次なるプロジェクトも、すでに動き出している。2013年2月初旬の出発で、障害者のキリマンジャロ登頂を企画したのだ。
「運動器に障害を持つ人で、自分で登山可能な人、それと車イスの人の参加を募っています。義手の人、義足の人の参加が決まりそうで、車いすの小学生もたぶん行くことになります」
キリマンジャロ登頂に続いて、9月にはゴビ砂漠(モンゴル)でのキャンプを計画している。こうした企画を通じて、風間は障害者の積極的な社会への参画や、健常者に負けない挑戦心の高まりを促そうとしている。
「将来的には、たとえばベーリング海をシーカヤックで渡るとかね、もっと大きな狼煙もあげてみようかなと。これは構想段階ですけどね」
自分への挑戦から社会貢献へ軸足を移した風間の冒険は、これからどのように進化していくのだろう。はっきりしているのは、彼の冒険心は決して枯れることがない、ということだ。
「障害者になったことで考え方の幅が広がり、いままでは感じなかった立ち位置も得ている。それが、どんどん増えている。ホントに様々な価値観がある。生きるってことは、広くて大きいね!」

障害者日本縦断駅伝で風間が乗ったヤマハの電動アシスト自転車。ペダルなど左足の後遺障害に対応させてある。

風間深志

かざま・しんじ

冒険家

1950年、山梨生まれ。72年~80年モーターマガジン社「月刊オートバイ」誌編集。82年、第4回パリ・ダカールラリーに日本人初出場。84年、エベレストにネパール側からバイクで世界最高5,880m地点到達。85年、中国側からエベレスト6,005m地点にバイク到達の世界記録。87年、バイクで史上初の北極点到達。89年、南米最高峰アコンカグア峰バイク登はん(6750m)。90年、自然塾「地球元気村」を主宰。92年、バイクで史上初の南極点到達。2004年、パリダカでの事故で左足を粉砕骨折し、日本の某病院で手術するも後遺障害を負う。以来WHO承認「運動器の10年」において、07年スクーターでユーラシア大陸横断、08年四輪駆動車でアフリカ大陸縦断、09年電動自転車でオーストラリア大陸横断、10年は南北アメリカ大陸縦断からグリーランドを経て「運動器の10年最終総会」が開かれたスウェーデンまで走破(スクーター、電動自転車、ゴムボートなど)。また同年に那覇→日本橋→札幌2300キロを障害者127名で縦断する「日本縦断障害者駅伝」成功。2012年「日本縦断障害者駅伝 完結編」成功。

運動器の10年世界運動キャンペーン公式サイト
http://bjdcampaign.info/


愛用のアイテム 釣り竿
愛用のアイテム
釣り竿

「冒険には、必要なものをベストな状態で揃えて持っていく。冒険は段取り八割、仕事二割だから。そう考えると、ずっと使い続ける愛用品はないんです。機能が最優先で、そうなると最新、最高なものになる。持っていきたいのは釣り竿。忘れることも多いんだけど(苦笑)。冒険のフィールドに行くと川があって、魚釣りをしたくなるんですよ。フライフィッシングが好きだけど、パッと釣るならルアーがいいね」

好きな本

「本は勉強と思って読んできて、基本的に読書は嫌い。自分の好奇心を追いかけるのが精いっぱいで、人がどうしたかを読む暇がないんですね(笑)。冒険の資料や関連した文献は読むけれど。もっと読んでおけば良かったなあと思いますが、いまもなかなか時間がありません」

好きな音楽

「音楽は重さがないから、冒険に持っていきます。行き先によってジャンルは違います。北極ではムチャクチャうるさいロックが聞きたくなる。人間は、対極にあるものを求めるんでしょうね。カリブ海に行けば、ヒーローも音楽の志向も変わってくる。やっぱりボブ・マーリーでしょう。出て行った先で感性が変わる。それがまた面白いね」

好きな映画

「これも観る時間がないですね。でも飛行機のなかで一本観たら、ずっとその映画の話をしている。だから嫌いじゃないんですよ」

2012/11/29

当「ファウスト魂」ページは、2012年8月~2014年2月まで日経電子版に掲載されていた特別企画を転載したものです。