Vol.001
挑戦の先にたどりつく新境地
堀主知ロバート
株式会社サイバードホールディングス
代表取締役社長 兼 グループCEO
モバイルコンテンツの雄と呼ばれる男は、今「第3次インターネット革命」が起こっていると言い、新たなサービスが次々と頭に浮かんで夜も眠れない、と目を輝かせる。一転オフタイムでは、自らレーシングドライバーとしてプロに混ざってサーキットを疾駆し、コンマ1秒のしのぎ合いにアドレナリンをたぎらせる。
経営者とレーサー。オン・オフのあまりの振れ幅の大きさに、同じ人物かと...[ 続きを読む ]
Vol.002
Never Ending
――高級時計文化を一層の高みへ
パスカル・O・ラベスー
高級時計財団 デベロップメント・ディレクター
スイスにはFHHという財団の存在がある。FHHとは、FONDATION DE LA HAUTE HORLOGERIEのイニシャルで、日本語では「高級時計財団」となる。今回、その財団でデベロップメント・ディレクターを務めるパスカル・ラベスー氏が来日。時計業界関係者なら誰もが知る団体、FHHの非常に意欲的な活動を紹介してくれた。 ...[ 続きを読む ]
Vol.003
世界中の頂上へ続く“想像する登山”
竹内洋岳
登山家
世界の登山界にその名を残す日本人が、2012年5月26日に誕生した。
プロ登山家の竹内洋岳が、
日本人初となる8000m峰14座完全登頂に成功したのだ。
山を愛し、山を敬い、山に挑み、山とともに人生を歩んできた男は、
新たな地平を切り開いた。
「挑戦」、そして「冒険」にかけるその姿はまさに“ファウストな生き方”そのもの
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Vol.004
アクアリウムという道を切り拓く
木村英智
アートアクアリスト/株式会社エイチアイディー・インターアクティカ代表取締役
8月17日から9月24日まで日本橋三井ホールで開催された、「アートアクアリウム展2012&ナイトアクアリウム」。
およそ5000匹の金魚が、それぞれのテーマに基づく空間のなかで優雅な舞を披露した。
アートアクアリストの木村英智が作り上げるその世界観は、独創的でありながら直観的である。水槽内だけにとどまらない
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Vol.005
誰よりも速く、人生のその先を走り続ける
篠塚建次郎
ラリードライバー
日本人初のパリ・ダカール・ラリーで優勝を遂げるなど輝かしいラリー人生を送ってきたラリードライバー篠塚建次郎。
22年連続で出場した同大会では常に優勝争いに食い込むトップドライバーとして世界の強豪チームと戦ってきた。
政情不安などによりダカール・ラリーが中止となった2008年、篠塚はまた新たな挑戦を始めた
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Vol.006
未知の領域に気負わない感性で挑む
高島郁夫
株式会社バルス代表取締役社長
日本社会に不透明感が漂流して久しい。
政治も経済も停滞から抜け出せず、社会全体が活力を失っている。
そんな中、日本を明るく照すように輝くリーダーがいる。
日本を明るく照らし出すリーダーがいる。
株式会社バルスの代表取締役社長を務める髙島郁夫だ。
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Vol.007
冒険は社会貢献を担う時代へ
風間深志
冒険家
冒険心を忘れない、と口にするのは簡単だ。
しかし、仕事に追われる毎日を過ごしているうちに、少年時代に
抱いた純粋な思いは置き去りにされがちだ。年齢を重ねても冒険心を
持って生きる者に、日本の社会はどこか冷ややかな視線を向けたりもする。
風間深志は人生のすべてを冒険に捧げてきた。彼が紡ぐ言葉には ...[ 続きを読む ]
Vol.008
個人の小さなチャリティーが世界を変える
佐藤大吾
一般財団法人ジャスト・ギビング・ジャパン代表理事
我々日本人にとって、「寄付」という行為はある種の気恥ずかしさを伴うものかもしれない。
一般常識や法律にそむくわけでもなく、むしろ、人間として尊い行為であるにもかかわらず、できることなら他者に知られたくない、という気持ちがどこかで働く。日本人の心には、謙遜、謙譲の美徳が深く根ざして
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Vol.009
企業の意識改革の伴走者
佐藤信也
株式会社イー・コミュニケーションズ代表取締役
近年目まぐるしく変わる、企業を取り巻く社会環境。そんななか年々声高に必要性が叫ばれる、企業の経営理念やコンプライアンス意識の浸透。そういった、社会に求められる企業の人材価値を高める教育プログラムやソリューションを、インターネットで提供
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Vol.010
社会と地球の荒波を乗り越え、出会った世界
ローラ・デッカー
海洋冒険家
その少女は、両親が世界一周の航海をしている途中、船の上で生まれた――。まるで映画や小説のプロローグのようだが、これは概ね実話である。そうだとすれば、彼女が後に史上最年少にして世界一周の航海に挑むのも、当然の成り行き。冒険するために生まれてきた
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Vol.011
ソーシャルゲームの新機軸で世界市場へ
池田宗多朗
株式会社サイバード執行役員
現在のモバイル業界のみならずゲーム業界をも席巻する存在となっている「スマートフォンのソーシャルゲーム」。その多くがフリーミアムにガチャを収益の柱に据えたビジネスモデルだが、そこに“バーコード”という独自の柱を加えた設計で挑み、一石を投じたiPhoneアプリがリリースされた。一ヶ月で約30万ダウンロード
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Vol.012
「THE FIRST」を目指し続ける
80歳のチャレンジャー
三浦雄一郎
プロスキーヤー/登山家
「三浦雄一郎」――数ある冒険家の中でも、その名が別格であることに異論を唱えるものはいないだろう。冒険家の中の冒険家、鉄人、超人、どんな称号も称するに足りるものはない。1964年のスキー直滑降・スピード世界記録に始まり、世界の数々の名峰を滑り降りたアドベンチャースキーヤーの第一人者として、世界に名を
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Vol.013
野球部と飲食業が生み出す“人財”力
新田治郎
株式会社ジェイグループホールディングス 代表取締役
熱い。とにかく熱い。新田が発する言葉は、どれもとびきりの熱を帯びている。それがまた、心地好い響きを持って迫ってくるのだ。語り口はゆったりとしているが、芯に固いものが通っている。類稀な先見性を持つ敏腕経営者にして、新進気鋭の社会人野球チームのオーナーでもある彼の人生は、どの角度から見つめても、
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Vol.014
世界有数のジェットチームが福島へ
ブライトリング・ジェットチーム
ジャパンツアープロジェクト
ブライトリング・ジェットチームが日本にやってくる――。ついに夢の実現である。一流のジェット・エアロバティックスチームは世界にいくつかあるが、国や軍ではなく、一民間企業が保有するチームとなると、ブライトリング・ジェットチームをおいて他にない。空を飛ぶことの魅力を熟知したブライトリングが、ショーを行うため
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Vol.005
誰よりも速く、
人生のその先を走り続ける
篠塚建次郎
ラリードライバー
日本人初のパリ・ダカール・ラリーで優勝を遂げるなど輝かしいラリー人生を送ってきたラリードライバー篠塚建次郎。22年連続で出場した同大会では常に優勝争いに食い込むトップドライバーとして世界の強豪チームと戦ってきた。政情不安などによりダカール・ラリーが中止となった2008年、篠塚はまた新たな挑戦を始めた。ソーラーカーである。還暦を過ぎた同年代の男たちはそろそろリタイア後のセカンドライフを考え始めている。しかし篠塚はそんな人生に甘んじない。この男、なぜ走り続けるのだろうか。
かけっこが速いのに理由なんてない
モータースポーツも同じ。とにかく誰にも負けなかった
伝説のラリードライバーと称される篠塚建次郎という名を聞いて、読者は彼についてどんな人柄を想像するだろうか。実際、彼の素顔は、穏やかで紳士的。話す口調も柔らかい。こうしてインタビューをしていると、世界一過酷なラリーを戦い抜いてきた強靭な肉体と精神の持ち主とは別人のようにも感じてしまう。そんな篠塚がいかにしてモータースポーツと出合ったのか。なぜそんなにも速いのか。
「かけっこが速い子どもっているでしょ? その子は特別な練習をして速くなったわけではない。生まれつきかけっこが得意な子どもなのです。それと同じこと。僕は大学時代、ラリーをやっている友達にナビゲーターを頼まれたことがきっかけでモータースポーツを始めた。そのとき初めてクルマが横滑りするのを体験した。その衝撃が忘れられなくて次第に自分も運転するようになった。そのとき『あれ?自分って結構速いじゃん』って気付いたんだ」
篠塚のラリー人生で特筆すべきはやはりパリ・ダカール・ラリーでの活躍だろう。86年に初出場、翌年総合3位。その活躍はNHKを中心に幾度もフィーチャーされ、篠塚の名はより広く世間に知れ渡るようになる。月に200台しか売れていなかったパジェロが、篠塚が乗っていたことで10倍の2000台も売れる爆発的ヒット。四輪駆動ブーム到来の立役者にもなった。その後も88年総合2位、95年総合3位、97年には日本人ドライバーとして初の総合優勝、98年総合2位、2002年総合3位という快挙を成し遂げた。またコートジボワール・ラリーでも2連覇を果たすなど、「ライトニング・ケンジロー」の異名で、世界で活躍をしてきたが、2002年三菱自動車から事実上の引退勧告を受けた。「53歳のときだった。でもドライバーを辞めるつもりはなかった。シンプルにラリーを続けていきたかったんだ」
写真上・下:見事優勝を遂げた1997年のパリ・ダカール・ラリーで。
こうしてプロのドライバーとして独立し、日産からのオファーで05年までダカール・ラリーに参加するが、結果は連戦途中リタイア。06年からイタリアのディーラーチームから出場するが、体制の規模から表彰台を狙う戦いはできなくなった。さらに08年、ダカール・ラリーはサハラ砂漠周辺の政情不安により開催直前に中止の決定が下された。
栄光と挫折。彼は40年以上に及ぶラリー人生の中で、多くの賞賛を受けトップドライバーとして君臨してきた。そして同じ分だけ苦しみを味わってきたのだ。
ガソリンで世界をさんざん汚してきた
転機は突然訪れた。「2008年春、母校の東海大学からの講演依頼を受けた。そのとき南アフリカでのソーラーカーの国際大会出場を考えていた木村英樹教授から相談があったんだ。今では強豪チームに育った東海大学のソーラーカーチームだが(*オーストラリア、南アフリカで開催される国際的な2大ソーラーカーレースで現在5連覇中)、当時はまだ経験が浅く、小さなレースに出場するくらいだった。何度も行っている土地だから、アフリカについてはアドバイスできる。でも僕はソーラーカーには乗ったこともないし、知識があるわけでもない。ソーラーカーレースに参加する自分などまったく想像していなかった」と振り返る。その後何度か打ち合わせの要請があり、ついに「サウス・アフリカン・ソーラーチャレンジ 2008」にドライバー兼アドバイザーとして参加することに。「時間がない中で決まったため、初めてソーラーカーを運転したのは現地南アフリカだったんだよ。操縦は想像していたより難しいものではなかったが、マシンに対して細心の注意が必要だと思った」
写真上・下:東海大学チームとして出場した2008年、2010年の南ア大会、2009年、2011年のオーストラリア大会でそれぞれ2連覇に貢献。
しかし、レースはソーラーカーの操縦だけではない。同大会はおよそ4000km以上もの距離(*2008年当時)を走破しなければならない過酷なレースだ。「現地に着いてすぐ学生の意識に波があることを感じた。中にはもちろん勝つことを意識している者もいるが、初めての海外で萎縮している者も、そしてどこか観光気分で参加している学生もいた」
ここで長年のレース経験が生かされる。篠塚はドライバーとしてだけでなく、レース時における学生の意識の統一、そして全員の安全確保に尽力した。かくして東海大学は優勝を果たす。木村教授、また(後にプライベートチームを組むことになる)山田修司・教育支援センター技術支援課技師補(*当時)率いる技術面での向上ももちろん勝因のひとつだが、競技に携わる学生たちのレースに臨む士気を高めたことが優勝の重要なカギとなった。さらに篠塚はマスコミへの露出を図り、朝の情報番組で活動が放映された。このことは、大学側がその年のソーラーカーの活動を高く評価したポイントになった。
帰国後、篠塚はレース後に必ず行なうというリポート作成を進めていた。「ソーラーカーレースに参加したことで、環境問題についても改めて見つめ直した。ラリーで大地を駆けまくっていた頃も地球温暖化はどんどん進んでいた。温暖化の原因であるCO₂はクルマからももちろん排出されている。今、全世界の約1割が自動車の恩恵を受けて生活しているが、これから豊かな国が増えていけばクルマ社会はもっと拡大していく。そうなればCO₂排出量はさらに増え、石油は枯渇していくだろう。今まで世界中を走ってきた自分にとって、CO₂を排出しない新しいクルマ社会のあり方を提案する必要があると確信した。いってみればこれは僕の義務なんじゃないかと思ったんだ」
こうして、篠塚はソーラーカーレースの活動に注力していく。2009年、11年の「ワールド・ソーラー・チャレンジ(世界最大のソーラーカーレース。オーストラリアで2年に1回開催)」で連覇、2008年に続き10年の南ア大会でも2連覇に貢献する。
そして今年、自身のソーラーカーチーム結成へ
苦戦を強いられた鈴鹿の大会。写真左はパートナードライバーで、スーパー耐久レースでも活躍する堀主知ロバート(サイバードホールディングス代表)
チームのマシン「シノワン」に乗り込む篠塚。
ソーラーカー業界に足を踏み入れ、瞬く間に国際大会で4度の連続優勝。スタードライバーの面目躍如と、誰もが思う結果を出せた。だが、そのまま安全圏に留まるより、容易ではなくとも更に新しい挑戦を選びたい、と思うようになる。それは「走り続けたい」という篠塚の本能が、そうさせたのだろう。「ソーラーの活動を一生やっていくうえで、もっといろんな活動をしたいと思った。そのためには自身のチームが必要だった」
そう決めると即行動。「スポンサーへの営業、マシンの手配、チームメンバーの編成……。すべて自分自身で行なった。これまではドライバーとして一秒でも速く走ることだけを考えてやってきたから、状況はまったく違う。でもやると決めたら動き出さずにはいられない性格なんだよ。『ソーラーカーチーム篠塚(以下、チーム篠塚)』では、結成1年目の目標を『ソーラーカーレース鈴鹿2012』優勝、『サソル・ソーラーチャレンジ・サウスアフリカ2012』優勝、ソーラーカーでのギネス世界最速記録の更新という3つに定めた。チームメンバーには、08年南ア大会で東海大学のプロジェクトコーディネーターを務めた、ソーラーカー設計・製作の第一人者、山田(*現呉港高等学校講師)をチーム監督に、そして山田監督の教え子で高校時代からソーラーカーの活動に携わってきたドライバー、エンジニアなどで構成される静岡ソーラーカークラブから少人数ながら、精鋭たちを揃えた」。しかし、チーム篠塚はいきなりトラブルに見舞われる。「東レに依頼する予定だった新車製作をスケジュールの都合で断念せざるを得なかった。鈴鹿、南アとも急遽、山田監督の設計のもとで15年以上前に作られた古いボディを改修してレースに臨むことになったんだ」。篠塚が獲得したスポンサーの東芝は、変換効率世界一という業界最高峰のソーラーパネルを有する。そのソーラーパネルを以てしても、競合相手の最新鋭マシンに比べて、現状のマシンは空気抵抗、走行抵抗などが劣り、また調整不足などから、チーム初戦となった8月初旬のソーラーカーレース鈴鹿では3位になるのが精一杯だった。「表彰台は死守したものの満足のいく成績を収められなかった。悔しい思いを胸に9月中旬、南アフリカに渡った。このサソル・ソーラーチャレンジ・サウスアフリカ 2012は11日間で首都プレトリアから西回りに南アフリカを一周しながら走行距離を競うレース。今年の規定距離は4632kmというソーラーカーの国際大会最長距離だった。道路事情が悪く、山岳ルートも多かった。おまけに天気は安定しない。夜は皆でキャンプを張って11日間を過ごしたりと、ベテランばかりのメンバーにとっても過酷なレースだったと思う。パンクやマシントラブルは絶えなかったが規定距離を走破し、出場したアドベンチャークラスで優勝できたのは、メンバーの個々の能力の高さに尽きる」
写真上・下:南ア大会では広大な大地をひたすら駆け抜けた。
その南ア大会の3日後、ギネスの世界最速記録に挑んだが、失敗に終わった。「このギネス記録はバッテリーを積まずに、ソーラーからの電力のみで走った速度を計測するというもの。しかし現在の最速記録88.8km/hを破ることなく、最終的に79.08km/hの結果しか得られなかった」。チーム篠塚が3つの目標のうち達成できたのは、南ア大会のみ。篠塚はチーム結成1年目の苦しみを味わった。「とにかく苦しい戦いだった。もし新しいボディでレースやギネスに臨めていれば、もし日本でテスト走行できていればもっと違う結果になったかもしれない。いろんなことが頭を駆け巡る。だが、これまでのラリー人生でも挑戦して、挑戦して、それでも挑戦し続けて最終的に勝つことができることを学んできた。一度の挑戦ではうまくいかないこともある」
見事クラス優勝を達成。篠塚を胴上げして喜ぶチームメンバー。
表彰式でのメンバーの晴れやかな表情が印象的。
まだまだやりたいことがいっぱいある
「ソーラーカー業界は黎明期。まだほとんど世に知られていない状態だから、スポンサー集めも難しいし、大会側の運営に関しても成熟しているとはいえない。だが、ラリーも僕が始めた頃は同じ状況だった。何もない状態から作っていくことの大変さは十分わかっているよ。でも、どんなに大変でもやりたいことをやって新しい道を作っていくことが好きなんだよね、結局は」
パリ・ダカール・ラリーの存在を日本中の誰も知らなかった頃、ラリーブームの一時代を築くまでに至った男の言う言葉には力がある。
最後にチーム篠塚としての次の目標について尋ねた。「ギネス記録挑戦にリベンジしたい気持ちが今は一番強い。そしてチームを最終的にプロフェッショナルチームに育てていきたい。活動がだんだん認められれば夢ではないと思う。既存のレースに出場するだけでなく、ソーラーカーでやりたいことはまだまだいっぱいある。僕は歩く速度も人の何倍も速いとよく言われる。でもそうやってずっと今まで突き進んできたんだ。それが僕の人生なんだろうね」
引き際など他人が決めるものではない。自分自身がフィニッシュラインを越えるまで、生きる伝説のドライバーはこれからも新たな伝説をつくり続けるだろう。
「不屈の男」篠塚はまだまだ走り続ける。
篠塚建次郎
しのづか・けんじろう
ラリードライバー
1948年生まれ。学生時代からラリーを始め、東海大学工学部を卒業後、三菱自動車に入社。国内ラリーを総なめにした後、74年から海外ラリーに進出。国際舞台での活躍を期待されていたが、77年の排ガス規制により、以後8年間はレースに参加することなく、デスクワークに従事。86年、38歳でパリ・ダカール
・ラリーに出場しドライバーとして復帰。87年総合3位、88年総合2位、97年総合優勝。同時に91、92年にコートジボワール・ラリーで2年連続優勝し人気実力ともに日本のラリーの代名詞となる。現在は経験を生かし、安全運転・省エネ運転・高齢者の安全運転等の講習会や講演等を勢力的に行なっている。また山梨県・清里を拠点に、雪道を安全に走るための初心者向けおよびスポーツドライビングのためのスクールを展開。2002年セネガル・ダカールの隣のヨッフ市にマム アラッサン ライ ド ヨッフ小学校を設立。08年からソーラーカーラリーおよびレースに参加。12年「ソーラーカーチーム篠塚」を結成。同年9月、南アフリカで開催された「サソル・ソーラーチャレンジ・サウスアフリカ2012」ではチーム初出場ながら4,600km超のコースを見事走破した。2011年、ファウストA.G.アワードにてファウスト特別賞を受賞。
篠塚建次郎オフィシャルサイト
http://www.shinoken.net/
ソーラーカーチーム篠塚オフィシャルサイト
http://www.solar-shinozuka.jp/
愛用のアイテム 家族の写真とお守り
愛用のアイテム
家族の写真とお守り
「奥さんが編んでくれた袋に家族一人ひとりの写真とお守りを入れている。レース中はもちろん常に自分の持つカバンの中に入っているんだ」
好きな本
相田みつを
「相田みつをさんの書く言葉も字もとても好きで、本も何冊か持っているし、毎年カレンダーも買っている。当たり前の言葉であり、決して新しいわけではないのだけれど、一つひとつの言葉をじっくり味わうと、とてもほのぼのするんだ」
好きな音楽
息子の歌声を録音したテープ(ノンタンの歌)
「パリ・ダカール・ラリーに出場し始めた頃息子が生まれ、息子の成長とともに走ってきた。大会中は20日間以上テント生活を送るので、子どもの声が無性に聴きたくなる。それで息子が歌う『ノンタン』の歌をテープに録音してもらっておいて、夜寝る前に一人テントの中でいつも聴いていた。それを聴くと心が落ち着いて翌日のラリーに臨めた」
好きな映画
「栄光への5000キロ」(石原裕次郎・主演)
「日産がサファリ・ラリーで優勝したことを記念してつくられた映画だが、ちょうど僕が国内でラリーを始めた時、公開され、自分の中ではとてもインパクトがあった。76年にサファリ・ラリーで日本人初の6位になったとき、この映画にちなんで、43分のドキュメンタリー映画『勇気ある男たちの5000キロ』を作ったんだよ」