冒険のクロニクル

人類は、新たな未来を切り開くために、数多の冒険や挑戦を重ねてきた。未踏の地を目指した者、知られざる世界を開こうとした者、そして、前人未到の記録を打ち立てようとした者などなど。いにしえより多くの勇気ある人々により綴られた冒険と挑戦の歴史。高度な文明を築き上げた現代にあっても、未だに身ひとつと叡智を駆使し、さらなる冒険に挑む人々がいる。「過去」「現在」そして「未来」。彼らの冒険の歴史を紐解くことで、世界はまた夢と希望と勇気を与えてもらえる。『冒険のクロニクル』は、世界で活躍する冒険者たちの生き様を書き記していく。

北極冒険家・荻田泰永

北極男が紡ぐ極地冒険譚 北極点をつかむ、三度目の挑戦(後編)

北極冒険――。
古くは400年以上も前から、人々は北の果てにある未知の世界に興味を持ち、その正体を探るべく、危険のともなう探検行へと向かっていった。1800年代に入り、勢いを増した北極冒険は1900年代に入ると、さらに熱を増し、フレデリック・クック、ロバート・ピアリーらの探検家が北極点を目指した。
そんな北極冒険の歴史において、またひとつ新たなページを記そうとしている冒険家がいる。日本人唯一の北極冒険家 荻田泰永。
その難易度の高さから、過去に成功したものは2人しかいないという「無補給単独徒歩」による北極点到達。彼はこの冒険を「極地冒険の最高峰」と位置づけ、挑み続けている。

(左)空と氷の境目がなくなるくらい延々と続く白い世界。しかし北極の表情はこれだけではない。
(中央)北極が見せるもう一つの表情。海水の流れに応じて氷同士がぶつかり合い、山のようなに高くそびえる乱氷帯。
(右)出発時、ソリの重さは120kgにも登る。でこぼこの氷の上も、巨大な氷の割れ目も、ひたすらソリを引いて前進する。

3度目となる北極点無補給単独徒歩への挑戦

現在、荻田は3度目の挑戦となる北極点無補給単独徒歩へ向かうべく、腕を撫している。2度も味わった途中断念の悔しさが、はやる気持ちを掻き立て、「次こそは」の思いを強くさせるのだ。

「1度目は全然つかみどころがなかった。2度目はつかめるかなと思ってつかもうとしたけど、スーッと逃げられた。でも今、ようやくつかみ方が分かった気がします。2度の経験で自分に足りていなかったものが何なのか、よく分かった。それが何なのかと聞かれても、すごく感覚的なものなので言葉にするのは難しいんですけど……。でも、自分に足りなかったものは何なのかとか、北極海とはどういうところなのかとか、そういういろいろなことがようやく腑に落ちたというか。2度の挑戦を経て、自分の何が変わったかと聞かれれば、それはもう装備がどうとかの表面的な話ではなくて、気構えと知識と経験。要は自分のここの話なんです」
荻田はそう言うと、胸のあたりを指さした。
2度の経験によって、荻田が手にしたもの。それを分かりやすく、より具体的に表現すれば、「先を読む力」というところだろうか。
例えば、スタートからの10日間はこれくらいの進行ペースだろうと予定を立てる。当然、そこには理由がある。海流がこう流れていて風はこちらから吹いているから、氷はこういう状況にあるだろうと想像する。リード(氷の割れ目)が発生するとしたら南北方向だなとか、ここは東西方向だなといった具合に、最大50日間にも及ぶ行程におけるあらゆることを予測する。それが「読む」ということだ。

「ここはたぶん割れているだろう。ここは比較的フラットになるだろう。大きなリードができていれば、そこで何日か足止めを食らうかもしれない。そうしたシチュエーションを全部考え抜いて何日かかるかを想定して、用意するわけです。相手は自然なので、全部人間が読めるかと言ったらそれは無理。何が起こるか分からない。でも、100は読めないかもしれないけど、どうにか100に近づけたいんです」
そのため、荻田は挑戦を前に多くの情報を収集する。「例えば、ですね」と言って、荻田がパソコンのキーを叩く。

インタビュー当日の極域環境モニターで観測した北極圏の海氷の様子。
※出典:国立極地研究所HPより

「今はこういうのを見れば、北極の海氷がどれくらい張っているかというのも分かるんです。白くなっているところが氷です」
そう言ながら見せてくれた画面には、北極点を中心とした周辺地図が描かれ、北極海上のあちらこちらで色が白く変わっている。
「これは大雑把な表示ですが、もっと高精細な映像を見ることもできます。氷が張っていれば張っているなりに準備をするし、氷の張り方が甘ければその前提で考えて準備をしなければいけない。確かに近年は温暖化の影響で氷が張りにくくなっている現状はあります。氷は薄くなるほど動きやすくなりますから、難易度に差がないと言えばウソになります。でも、調べれば分かるわけですから。氷が張っていなかったから行けませんでしたとか、割れ目が多すぎたので行けませんでしたというのは、単純に準備が足りなかっただけのこと。氷のせいではなく、自分のせいなんです」
事前にこうした情報を収集し、すべての変化を予想しながら計画を立てる。だが、自然は時にそんな人間の発想をあざ笑うかのように、巨大な乱氷帯や大型ブリザードとなって猛威を振るう。

必然、刻々と変化する状況に対応するためには、現地で実際に得る情報が重要度を増す。
「氷の動き方にしても、マクロの動きと、現場レベルのミクロの動きでは全然違います。北極海全体で言えば、海流がこう流れているので氷はこう流れるだろう、と予測する。でも、現場で逆方向の風が吹けば、流れる向きは変わるわけです。また、わずか1,2mのリードであっても、そこに落ちれば簡単に死んでしまいます。そういうものは事前には分からないし、常にマクロとミクロの両方の動きを意識しなければいけません」

だが、いかに細かく先を読もうとも、当然、不測の事態は起こりうる。それでも荻田は恐れる様子を見せない。むしろ不測の事態との遭遇を楽しみにしているかのようだ。
「よく『不測の事態に出会ったらどうするんですか』と聞かれるのですが、それに答えるのは難しい。予測できないから“不測”なわけで、『その場でどうにかします』としか答えようがない。予測できることは全部予測するし、不測の事態が起こる可能性はなるべく潰していくけれども、当然起こりますから。でも、それがあるから冒険ですし、全部なくなったら冒険ではなくなってしまう。漢字で書くと、『危険を冒す』で冒険。リスクがあるから冒険だと思っています」
リスクがあるから冒険――。起こりうるすべてのことを受け入れたうえで、何事にも対処できるという自信はこれまでの経験に裏打ちされたものだ。荻田は落ち着いた口調で語る。 「経験のないうちは、小さなリスクでつまずいていましたが、経験を積むごとに自分で扱い切れるリスクの量はどんどん増えていきます。難しいことにチャレンジしていくと、当然リスクもそれにともなって大きくなっていきますが、それでも何事もなかったかのようにスーッと越えていく。リスクをなくすのではなく、表面化させない。そういう自分でありたいと思います」。

北極点という「通過点」

荻田にとって北極点無補給単独徒歩到達は、現在の大きな目標ではあるが、言い換えれば、「ただの目標です。それが生きる目的ではないですから」ということにもなる。

「大きな目標であり、難しい通過点ではあるけれど、所詮通過点なんだから、さっさとチェックポイントは通過したい。もうできると思っていることを、あとは確認するだけです。早く終わらせたいし、終わらせる自信もあります」
荻田はそう語ると、「でも」と言って、言葉をつないだ。
「だから終わらせるときも、理想は余裕で終わらせたい。一週間何も食べていないけど、這いつくばって何とかたどり着いたというのでは、あまりうれしくない。ゴールしたときに、『北極点に着きましたけど、何か?』みたいな(笑)。それが自分の理想です」

過去、北極点無補給単独徒歩到達に成功しているのは全世界でふたり。1994年のボルゲ・オズランド(ノルウェー)と、2003年のペン・ハドウ(イギリス)がいるだけだ。もちろん日本人の成功は史上初の偉業となるが、それでも荻田は「通過点」だと表現する。

では、チェックポイントを通過した先には、この北極冒険家にどんな挑戦が待っているのだろうか。
「北極点が終わったら、次は南極をやろうかなと考えています。南北の両極点に無補給単独で、かつ完全に徒歩だけでたどり着いた人は過去にいませんから」
荻田が挑む北極点無補給単独徒歩到達は過去にふたりしか成功者がいない。だが、それとは対照的に、南極点には20人もの成功者がいる。つまり、南極点のほうは技術的にかなり容易いのだが、北極点があまりにも難しいために両極点に到達した人はいないのだ。

参考までに紹介しておくと、北極点到達に成功したオズランドは、南極大陸も横断しているのだが、パラセールを使ってのものだった。当然、行程のなかには多くの徒歩行も含まれていたが、風力、すなわちウインドサポートもまた機動力と見なされるため、完全な徒歩行とは認められていない。同様にハドウもまた、南極点には到達しているのだが、チームでのものだったため、両極点に無補給単独徒歩で到達した人はいないのである。

「正直に言って、北極点をやった後に南極点までの無補給単独というのは、自分のスキルからするとかなり下のことになります。ですから、南極点に到達するだけではおもしろくないので、南極大陸横断をするかもしれません。何をするかは分かりませんが、少なくとも両極点の無補給単独はやりたいと思っています。そういう意味では、南極はチャレンジというよりも、行ったことがないところへ行く楽しみというか、どんなところなんだろうというワクワク感があります。もちろん、南極には南極の難しさもありますが、半分チャレンジ半分ワクワク。そんな気持ちでいます」

「通過点」を超えるための決断

荻田が2016年に挑戦する北極行のルート。

2016年、荻田は大きな目標である北極点無補給単独徒歩行に、3度目の挑戦をするつもりでいた。2月には日本を発ち、3月から4月にかけて歩くというプランを立てていた。

過去2度の挑戦はカナダ側からのアプローチだったのに対し、今回はロシア側から入るという変更点こそあったものの、それは戦略変更などの込み入った話ではなく、単純に「カナダの飛行機会社がチャーター機を飛ばす業務を止めてしまい、現地での移動ができないというオペレーションの問題です」。
「本当はカナダ側からがよかったけれど」と言いつつも、「カナダにはカナダの、ロシアにはロシアの難しさがあるから」と語る荻田の目は、冒険家らしく生き生きと輝いていた。
「確かに、ルートの性質は違います。カナダ側は乱氷帯が多いけれど、リードはそんなに多くない。逆にロシア側は乱氷帯はあまりないけれど、リードは多い。特徴の違いはありますが、それに対応していけばいいだけですから」
できると思っていることを、あとは確認するだけ。そう語り、3度目の挑戦を心待ちにしていた荻田。だが、結果的に苦渋の決断を下さざるをえなくなった。

今年の北極点挑戦は断念いたします――。
「北極点挑戦に関する重要なお知らせ」と題された2016年1月17日付の自身のブログには、そう記されていた。2015年末の段階で、予算的に厳しい状況にあることを吐露していた荻田だったが、年が明けて1月、正式に今回の計画断念を発表するに至った。
「歯がゆいですよ。もうつかめる自信はあるのに、つかめない。そんな感じです」
それでも荻田は、自らが定める目標から視線を外すことはない。同じブログのなかで荻田は、「北極点挑戦は実行しませんが、今年は別計画での北極徒歩行を行います」(原文ママ)と発表している。

「極点はあまりにお金がかかるのでできませんが、(2度目の挑戦を行った2014年から)2年も空いてしまうと勘も鈍るので、北極へは行こうと思います。感覚を慣らしておくという目的もありますし、現状で開発している装備のテストもしたい。あとは単純に、前からそこを歩きたいと思っていたルートもありましたから」
果たして、荻田は3月初旬に日本からカナダへ向かって発ち、ひとりで北極を歩くことを決めた。ブログで発表されているところによれば、「ルートは、まずカナダ北極圏に飛んで、最北の村であるグリスフィヨルドに入り、そこから約1,000㎞の無人地帯を歩いて、国境を越えてグリーンランドにある世界最北の村であるジオラパルクまで行こうかと思っています」(原文ママ)という。

荻田は歯がゆさを抱えたまま、しばらくの時間を過ごすことになった。確かな自信を手に、次なる大きな一歩を踏み出そうとしていただけに、それは辛い時間になるかもしれない。
しかし、だからと言って、彼が挑戦を止めることはない。もちろん、それは北極点に到達したとしても何ら変わることはない。
荻田泰永が紡ぐ冒険譚には、まだまだ続きがある。

Text:Masaki Asada
写真提供:荻田泰永

INFORMATION

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